未だ題名のない物語の始まり【更新中】

2026年1月12日

2/8「覇王殿下のお気に入り」に1/31現在掲載中の個所まで準備号として無配予定です。
ここに全編掲載予定。ちびちび更新改稿します。
※WEB最新話までのネタバレ含みます。捏造設定多数。オリキャラがわさわさ出てくるかも。

一、四十年

「四十年か」
天蓋から垂れ下がる薄絹の向こう、寝台の上でクッションを背に身を起こしている先王ヒュベルトゥスの姿がうっすらと見えた。
「昨日のことのように覚えているぞ、ツェアフェルト将爵。其方が私の前に初めて現れたあの日を」
「できれば忘れていただきたいところですが」
「この年まで忘れずにいたのだぞ? 死んでも忘れぬだろう」
薄絹の向こうでヒュベルトゥスがふっと笑う気配がした。
死という言葉にヴェルナーは身じろいだ。
四十年という年月が流れても、低く張りのある声の、力強さは些かも失われていないように感じられる。

――それでも

この方はここからいなくなってしまう。
「ヴェルナー」
密やかに名を呼ばれ、寝台横に置かれた椅子から立ち上がる。
遠巻きにこちらを見ていた国王ルーウェンと目が合うと、小さく頷かれた。
父であるヒュベルトゥスよりは線が細いが、思慮深さと意志の強さが表れた良い目をした王になった、とヴェルナーは思う。
国王ルーウェンの横には王太子と次男のコルトレツィス大公、末子の王女と王太子の子である王太孫。
後顧の憂いはない、か。
いや、国政に憂いなどいくらでも湧いてくる。
それでも、もはや年寄りたちの出番など必要ないだろう。
ヴェルナーは薄絹ぎりぎりまで身を寄せる。
「ここに」
「約束を、覚えているな?」
「……はい」
「なに、急がずともよい。こちらでやるべきことをやってから、ゆっくりくるがいい。気長に待っている」
「陛下」
「だが、必ず私の元に来い。来ねば、探しに行くからな」
ヴェルナーの喉がぐっと詰まる。
この年になるまでに、何人もの人を見送ってきた。
戦いの中で失われた人も、穏やかに旅立った人も。長生きした者も、若くして亡くなった者も。
置いて行かれるばかりの年になり寂寥はもちろんあるが、誰が亡くなっても、意外と世界にも自分の生活にもこれといった変化はないものだ。
だが、間もなく旅立とうとしているヒュベルトゥスを前に、ヴェルナーは今までになく胸の詰まる想いがした。
才気と覇気に溢れた美しく強い王に重用され、国の中枢でそれなりの働きをし、将爵も賜った。
ヒュベルトゥスの意向をできるだけ現実にしてきたし、ヴェルナーの考えを良く取り入れて頂いた。
それでも、応えることができないことはあった。
人目のない時に、気の置けない者たちだけの時に衒いなく寄せられるヒュベルトゥスの想いに、ヴェルナーは応えることはできなかった。
「待っていて、くださるなら」
掠れた声でどうにか言葉を返したヴェルナーに、薄絹の向こうのヒュベルトゥスがまた笑った。
「……行くがよい」
「は…」
ゆっくりと深く礼をして、ヴェルナーはヒュベルトゥスの寝室から去った。

翌日、夜明けの光が差し始めたころ、王都中に鐘の音が鳴り響いた。
弔いの、鐘の音が。

二、 四五年

ツェアフェルトの領都ツェアブルクはなだらかな丘陵地帯とそのふもとに広がる盆地の中にあり、街を取り囲むように石積みの葡萄畑が段々に広がる土地だ。
内陸性の気候は朝晩の寒暖差が大きく、葡萄の栽培には適しているが、初夏になろうという時期でも夜明けの今時分はかなり冷える。
ヴェルナーはぶるりと身を震わせ、項を撫でる。
人生の大半を共にしていた長い後ろ髪は、半年前に妻のリリーが没したときに切り落とした。
「すまない、リリー。俺はここで一緒に眠ることができるか、分からないからなあ」
光りの向こう側に向かった妻にそう詫びて、ヴェルナーは黒く艶やかな長い髪を、妻の棺に入れた。
それから半年後の今日、ヴェルナーは妻と両親、兄の墓に旅立ちの挨拶にきた。
ツェアフェルト邸は丘陵の麓より少し登ったところ、領都を一望できる場所にあり、そのさらに裏手を登ったところにある小さな森の中にツェアフェルト家の代々の墓地がある。
「それじゃあ、行ってくるよ」
妻の墓に花を手向け、そう声をかけると、ヴェルナーは年に合わず機敏な動きで立ち上がる。
墓地に背を向け歩き出すと、樹々の間からツェアフェルト邸、その下に広がる領都と葡萄畑が見えた。
夜明けを告げる鐘の音が朝靄に包まれる領都に響く。
炊飯の煙が一つまた一つと立ち昇り始めるのをヴェルナーは眺めていた。
「頑張ったよなあ、俺」
ツェアフェルト領はヴァイン王国の中でも有数の豊かさを誇る領地となった。
魔王討伐後、この世界は緩やかに変わっていった。
強力な魔物は減っていったが、地震や自然災害が発生するようになり、気候が変わった地域もある。
ヴェルナーは国政に携わる身としてそれらの対策にも関わったが領政にも手を抜かず、領地での治水、開拓、新たな産業や作物の栽培、教育、雇用、様々な分野に力を注いだ。
自分の力など微々たるもので、才知ある人の力を借り、現場で身体を張って頑張った人々のおかげであることはわかっている。それでもまあ、ちょっといい方向にもっていくことはできたんじゃないかなとヴェルナーは思っている。
「凡人にしては、頑張った」
もう一度呟いて満足気に領都を見渡す。
その時、左の手首にほのかに熱を感じた。
腕時計を見るような仕草で左手を軽く上げて見ると、シンプルな銀のオープンバングルに嵌められた四つの小さな宝玉のひとつが光っていた。
その光を見てヴェルナーは大きく息をつく。

――やるべきことをすべて終えたら…世界を気ままに旅して見て回りたいですね。

そうヴェルナーがぽつりと零したのは四十年近くも前のことだ。
まさかこうして本当にこの年になって旅に出ることになるとは。
先王ヒュベルトゥスの崩御後、宮廷が落ち着いたころを見計らってヴェルナーは宰相を辞し、ツェアブルクでリリーと領政に携わりながらものんびりと半隠居の身を楽しんだのは五年ほど。
そしてリリーの葬儀を終えた直後に、将爵の位を長男に譲り政治からは完全に身を引いた。
ヴェルナーが旅に出ることを知っているのは、家族と、マゼル、ラウラ、ルーウェン王と一部の王族のみ。
対外的には完全に隠居して領地に引きこもるただの爺だ。
ツェアフェルト邸に居る長男とは昨夜のうちに旅立ちの挨拶を交わした。
見送りは不要だと言っておいたが、夜明け前にツェアフェルト邸を一人で密やかに出てゆくヴェルナーは背中に視線を感じた。
館の窓から息子が見送っていたのだろう。きっと昨夜と同じように眉間に皺を刻んで、心配と気遣いの入り混じった複雑な顔をして。
周りには長男はヴェルナーによく似ている、と言われていたが、ヴェルナーからすると自分より父のインゴに似ているように思えた。憮然としたときの表情と眉間の皺がそっくりだった。
そうヴェルナーが言うとリリーは「ヴェルナー様も、お義父様によく似ていますからね」と笑ったものだった。
リリーによく似た次男と長女も闊達に才能豊かに育ってくれた。それぞれに望んだ人生を歩み、家庭を持ち、孫を見せてくれた。
「まあ、また会えるさ…。生きてさえいれば」
長い旅になる。だが帰ってこないつもりではない。
ヴェルナーはもう一度、夜明けの光に照らされ始めたツェアブルクを見下ろして頷く。

「コルトスへ」

一瞬宙に浮いたような奇妙な感覚がしてヴェルナーは目を瞑りそうになる。周囲を警戒しなくてはと慌てて顔を上げた時には、コルトスの街の門が遠くに見える小さな雑木林の外れに居り、目の前には意外な人物が立っていた。
夜明けの薄暗い中でも目立つ金の髪。白皙の肌に蒼氷の瞳。
堂々たる美丈夫が微笑んでいた。
その後ろには二台の馬車と馬車脇に控える冒険者と思しき風体の者が二名。更に遠巻きに離れて数名の護衛騎士と馬。
「……大公殿下?」
「ようこそ、コルトスへ」
「なぜここに?」
「ヴェルナー卿がここまで来ておきながら、私の館にも寄らずに旅立つと聞いたもので」
コルトレツィス大公が笑みを深めて答える。
その顔を見てヴェルナーは思わずため息をついた。
ルーウェン王の次男、コルトレツィス大公は三二歳。父のルーウェンより祖父であるヒュベルトゥス先王によく似ていた。
文武両道、容姿も気性も先王に似ているとあって、先王の生前にはルーウェンの後王位を継ぐのは第一王子より第二王子のほうがふさわしいのではないか、との声が多かった。
第一王子はルーウェンによく似た容姿と思慮深さ、ローゼマリー王妃の溌溂さを併せ持ち、才も豊かで慕われていたが、貴族たちの間では政戦両略に才知をふるい、覇気の王と言われたほどのヒュベルトゥスに心酔していた者が多かったのだ。
当の第二王子は自分を担ぎ上げようとする者たちを煩わしく思い、学園を卒業後すぐにコルトレツィス大公の位を継いでさっさと領地に引きこもってしまった。
第二王子には文武以上に、芸術の才があり煩わしい政治にかかわることを好まず、宮廷内の駆け引きよりも絵画に向きあう時間のほうがよほど有意義だと思っていたのだ。
王族として、コルトレツィス領を治める大公として、文武の才も惜しむことはなく領政を努めてはいるが、国の政治にはあまり関わらないようにしていた。
しかし、コルトレツィスは特別な領地だ。
ヴァイン王国の南東端に位置する大領地でファルリッツとデリッツダムとの国境に面し、海岸もある。
魔王が滅んだ後、強大な魔物は緩やかに数を減らしていき、海路での交易が増え、海路と王都をつなぐコルトレツィスの重要性は増した。
そしてなにより、ヒュベルトゥスが王太子時代に「コルトレツィスから王が出る」という偽の予言を逆手にとり、コルトレツィス大公となり、コルトレツィス侯爵家を排し、叩き潰し、その後予言通り王となった。
そのような領地に、王となることを期待されているヒュベルトゥスによく似た若き大公が入ったのだ。ヒュベルトゥスから大公位を継いで。
それこそ王となる大望を抱いてのことではないか、ヒュベルトゥスは第二王子にこそ王位を継いでほしいと思っているのではないかと、一部の大公派の貴族は盛り上がり、コルトレツィスに出入りして大公を唆し懐柔しようとした。
大公はそれらの者を放置し、その情報をヴェルナーに流した。
大公は何もせず、対応に追われたのは宰相だったヴェルナーだ。
誘蛾灯のように不穏分子を集めるだけ集めておいてそれはないだろうと思いつつ、ヴェルナーもその機会を利用してルーウェン王と王太子に不満を持つ一派の弱体化を図った。
「大公は父上以上にヴェルナー卿をうまく使っているな」とルーウェンを苦笑させ、ヴェルナーの睡眠時間を奪い、その間に大公は領内を把握し、領政に取り組み、悠々と筆を動かす生活に落ち着いた。

「私もヴェルナー卿と共に旅をする」
「……は?」
「ヴェルナー卿をわずかな供だけで国外に旅立たせるなど、リリー先生も心配するだろう。私も共に行く」
幼いころから絵画に親しんでいたコルトレツィス大公は、リリーを師と仰いで教えを受けていた。ツェアフェルト邸にも出入りして、ヴェルナーに対しても気安い。
二か月前には王都からコルトレツィスへの帰路の途中にツェアブルクに寄ってリリーの墓参りをしてくれたのだった。
リリーの墓参りだけが目的ではなかったが。
ヴェルナーは手のかかる子を見るような目で大公を見て口を開く。
「殿下にはここで果たすべき責務がありますよ」
「責務か…。誰よりもそれを果たしたそなたに言われると逆らい難い」
大公がヴェルナーの手を取る。
「また、会えるな? ヴェルナー卿」
金の髪がさらりと揺れ、蒼氷の瞳が朝日を弾く。
「その時はまた、素のあなたを見せて欲しい」
ヴェルナーは言葉に詰まる。
この顔と瞳で迫られると否やを言いづらいのだ。
それを知っていて大公は愉快そうな笑みを浮かべた顔をさらにヴェルナーに近づける。

「大公、そこまでだ」
二台ある馬車の一台からくぐもった低い声がして、ヴェルナーの心臓が跳ねた。
よく知った、だが久しく聞いていない声、のような気がした。
ヴェルナーがそちらに視線を向けると、馬車脇に控えていた二人が近づいてくる。
小柄で細身な少女、年のころは十八よりは下か。短剣を腰の左右に差し、おそらくは冒険者、斥候ではないかと思われる身なりと身のこなし。艶のある赤髪と幼さが残るが色気のある美女になりそうな美貌だ。
その後ろにいるのは背の高い一見細身だがしっかりと筋肉の付いた二十半ばくらいの大剣を佩いた青年。こちらは身なりは冒険者だが、元は騎士だったのではないだろうか。
コルトレツィス大公は渋々といった体でヴェルナーから手を離し、声がした馬車をちらりと見て肩を竦めた。
「ヴェルナー卿、この二人が旅の間の護衛だ。……もっと護衛はつけていただきたいところだが、身軽な旅が望みだと聞いたので」
ヴェルナーは会釈する二人を見て妙な既視感を覚えた。知りあいの誰かに似ているのだろうか。
「離宮まではコルトレツィスの騎士も護衛につきます」
「離宮?」
コルトレツィス大公の離宮のことだろうか。海が見える高台にある小さな離宮で、王族や大公の身内のみが利用する極私的な離宮だ。ヴェルナーも一度だけ滞在したことがある。
「詳しくは馬車の中にいる者に…。私はこれで失礼する」
そう告げると大公は馬車に乗り込んだ。
大公の馬車が動き出すと、赤髪の少女がもう一台の馬車の扉を開け「どうぞ」とヴェルナーに声をかける。
まだ周囲は薄暗く馬車の中はなおさらで、中にいる者の姿は見えない。
ヴェルナーは一瞬ためらい、意を決したように馬車に近づく。

薄暗い馬車内の奥に一人の男がいた。
年のころは四十になるかならないか。長い脚を組んでゆったりと座わりヴェルナーを見ている。
「久しいな、ヴェルナー卿」
その声と姿を見てヴェルナの息が詰まる。
誰がいるかは予想できていた。自分を呼んだ人なのだから。
自分の人生の、半分以上をこの人に仕えた。
礼を取ろうとして戸惑った。
中にいる人物は冒険者のような風体をしているが、見るからに高貴な方だというのがわかる。しかし実際まわりにどういった身分の者だと名乗っているのかもわからない。
「礼など不要だ、早く乗りなさい」
促されてヴェルナーは馬車に入り、男の斜め前に腰を下ろした。
「出せ」
男が馬車の外に声をかけると、馬車はがくりと揺れ、緩々と動き出す。
「お……お久しゅうございます」
絞り出すようにヴェルナーが言うと、目の前の男、ヒュベルトゥス・ナーレス・ヴァイス・ヴァインツィアールがふっと笑った。
馬車の窓枠に肘をかけ、頬杖をついて笑ったままヴェルナーを見つめる。
「もはや我らはお互い無位無官の身だ。そのように改まった話し方をする必要はない。……それに約束しただろう? その時が来たら、名前で呼んでくれるのではなかったか?」
無位無官というか、そちらは無位無冠……いやいや死んだことになっている身ですけど…とヴェルナーは思いながらヒュベルトゥスの顔を見る。
「ヴェルナー?」
「……はい、ヒュベルトゥス様」
「ヒュベル」
「ヒュベル…様」
「様もいらぬが」
ヒュベルトゥスが笑みを深める。
「勘弁してください…」
「まあよい。それは追々だな」
「……その恰好でコルトレツィス領内で過ごしていたのですか?」
「そうだが? コルトレツィスだけではなくあちこち回ったぞ。冒険者の真似事をしてな」
こんな冒険者がいるか! と叫びそうになりヴェルナーはぐっと堪えた。
「ソウデスカ…」
「そなたはいつまでその恰好でいるつもりだ?」
「惑わしの魔道具は足首につけているので」
ヴェルナーの装いは身軽な旅装。柔らかい皮のショートブーツなので脱ぎやすくはあるが、ヒュベルトゥスの前でブーツを脱いで足をさらし魔道具を外す必要はない。どこか宿に入るなり落ち着いたタイミングで外せばよいとヴェルナーは思った。
「こちらの足か?」
「え、ちょ…っ」
ヒュベルトゥスは屈みこみ、ヴェルナーの右足首を掴んで持ち上げブーツに手をかける。
「陛下!」
体勢を崩し座面に手を付きながらヴェルナーが抗議するがヒュベルトゥスは構わずブーツを引き抜く。
「陛下ではない」
「ヒュベル様!」
パチン、と弾けるような音と共に足首の魔道具が外れ、それをヒュベルトゥスは自分の腰のポーチにしまい込んだ。
「返してください」
「当分必要ないだろう」
ヒュベルトゥスがにっこりと笑みを深める。
ああ、久しぶりに見る圧のある笑顔だな…と遠い目をしながらヴェルナーはブーツを履きなおす。
「ああ…本当に久しぶりだな、ヴェルナー」
ヒュベルトゥスがひたとヴェルナーの顔を見つめる。
蒼氷の瞳に映るのは、年のころは二十代前半の青年。
「全く年を取っていないな」
ヒュベルトゥスの手のひらが頬に添えられ、ヴェルナーの肩がぴくりと跳ねる。
「……あなたさまこそ」
ヴェルナーのオニキスの瞳に映るのは、四十才になるかならないかという壮年、即位したばかりのころのヒュベルトゥス、そのままの姿だった。
ただし、その髪は黒い。
「状況は何も変わっていないということか…」
ヴェルナーの頬を撫でた指先が顎先まで滑り、くいと顔を上向かせる。
「ところで…。この姿を大公に見せたのか?」
「は…、二か月前にツェアフェルトにお寄りいただいて、リリーの墓参りと、ヒュベル様からの書簡を届けてくださったさいに…」
「何か言っていたか?」
「何か? いえ特には…。『なるほど』と言っていたくらいだったでしょうか」
「……なるほど」
ヒュベルトゥスはヴェルナーの顎から手を離し、背をバッククッションに凭れさせるが視線はヴェルナーの瞳を見つめたままだった。
その視線にヴェルナーは落ち着かずにふいと目を逸らす。

「こちらを…預かってきた」
二か月前、ツェアフェルト邸の貴人を迎えるための応接室でヴェルナーはコルトレツィス大公から封書を差し出された。
封筒も便せんも、始めはツェアフェルトで植飾紙によって作られ、やがて各地で使われ作り出されるようになったものだ。今では平民の間にも普及している
確認してかまわないという大公の身振りを見てその場で開封し便箋を取り出すと、ふわりと懐かしい香りが広がった。
崩御した、とされてから五年、一度も接触も連絡もしてこなかったヒュベルトゥスの好んだ香り。
とうとうこの時が来たかと思いながらヴェルナーは秀麗な文字が綴られた便箋に目を走らせる。
そこには日付と、夜明けに飛行靴でコルトスへ、大公に預けた魔道具で合図をするとだけ書かれていた。
「魔道具?」
大公を見上げると、ヒュベルトゥスに似た顔でにっこりと笑みを返された。
「預かっている、腕輪だ」
大公が軽く手を上げると、後ろに控えていた大公の護衛騎士が小さな箱を大公に手渡し、そのまま部屋から出て行った。
大公が箱を開けると、中には銀のオープンバングルがあった。
「持ち主を登録するので、今身に着けている魔道具をいったん外してもらえるか」
ヴェルナーの一瞬の戸惑いを見抜いて大公が言葉を続ける。
「惑わしの魔道具だ」
「わかりました…。失礼いたします」
ヴェルナーが屈みこみ、足首に嵌めている魔道具を解除する。
惑わしの魔道具は、元は年齢を少しばかり若く見せるためのご婦人方垂涎の魔道具だった。作るのに入手困難で高価な素材がいるので利用している者はそれほどいなかったが、それを研究・改造しできたのがヴェルナーが身に着けていた老いたように見える惑わしの魔道具だった。
元の惑わしの魔道具よりさらに入手困難な素材が必要だったが、マゼル達勇者パーティーの面々が手に入れてくれた。
身を起こしたときには六十歳を過ぎているはずのヴェルナーの容姿が、二十歳を超えたばかりかという青年の姿になっていた。
「……なるほど」
大公は軽く目を見開き驚きを隠せない表情だった。
「ツェアフェルト子爵…将爵か。似てるとは思っていたが本当によく似ていたのだな。……よく隠し通せたな。祖父も、卿も」
「下手をすると魔族扱いされかねませんからね。館の中でもめったに外すことはありませんでした」
外したのは、リリーに乞われた時だけだった。
時の流れに取り残された夫の姿を見て、「お年を召したヴェルナー様もお若いままのヴェルナー様も、両方とも素敵なのでとても得した気分です」と笑った。
自分ひとり若いまま、ともに年を取れない罪悪感。取り残されていく恐怖ごと笑顔で抱きしめてくれた妻だった。
「苦労も苦悩も多かっただろう」
そう言いながら大公が右手にバングルを持ち、左手を差し出す。
「自分で着けられますが…」
嵌めてやろうという大公の意図を察したヴェルナーが断りの言葉を口にするも大公は笑顔のまま手を引かない。
ヴェルナーは隠す気もなく大きくため息をついて見せた。
「まったく、貴方こそ先王陛下によく似てらっしゃる」
諦めて差し出されたヴェルナーの左手をするりと取って大公がバングルを嵌め、手を離さぬままに魔道具としての使い方を説明し始めた。
バングルに嵌められている小さな四つの宝玉はそれぞれヒュベルトゥス、ツェアフェルト将爵家、ハルティング将爵家、王家からの連絡を小さく明滅することで伝えられるようになっている。ヴェルナーの記憶にある前世で言うところのモールス信号だ。最後の連絡は繰り返し再生して確認することが可能になっている。
コルトレツィス大公が去ったあと自室で一人、左腕に嵌めたバングルを右手でくるくると弄びながらヴェルナーは思考の海に沈む。
ヴァイン王国で貴族の家に生まれ育ち、魔王の勢力と戦い、政治に携わり、領地を治めた。その貴族としてのヴェルナー・ファン・ツェアフェルトとしての人生から外れて別の道を行く時が来たのだ。
バングルがほのかに熱を持ち、ヴェルナーは宝玉を見つめた。
『待っている』
宝玉の一つがそう告げた。

 
「してやられたな」
コルトレツィス大公がツェアブルクへ来た時のことを聞いたヒュベルトゥスが微苦笑を浮かべた。
「魔道具を登録する時に、他の魔道具を外す必要はない。単に大公がそなたの姿を見たかっただけだろう」
「……っく」
ヴェルナーはがくりと首を垂れた。
登録が必要な魔道具を複数装備するようなことはそうそう無い。王族なら身を護るため複数を装備することもあるかもしれないが。ヴェルナーはそういったものかと疑わずに惑わしの魔道具を外してしまったのだった。
「本当に貴方方はよく似ていますよ…」
「卿の……君の妙なところでちょろいのは年を経ても変わらぬな」
「ちょろい……。随分と砕けた言葉を使うようになりましたね」
「そうか? まあこの五年、冒険者としてあちこち回って街で過ごしたりしていたからな」
「髪の色を変えただけの姿で?」
「私の若いころの姿を覚えているような者は街中にはいない。髪の色がここまで違うと大公の顔を遠目に見たことある程度の者は似ていると思わないようだ。……まあ、たまに大公邸にも出入りしていたので『先王陛下のご落胤』ではという噂が立ったり、妙な輩が寄ってきたりしたがな」
この人が冒険者としてだけ過ごしていたわけがないと思っていたがやはり。コルトレツィスという良い釣り場で釣りに勤しんでいたようだ。
「……楽しく過ごされていたようで何よりです」
くすくすと笑いながら話すヒュベルトゥスの様子が、妙に浮かれているようにヴェルナーは感じた。
「離宮へ行くというのは…?」
「これから国外へ出て長旅をしようというのだ。準備がいるだろう?」
「であれば、街中に泊まる方がいいのでは?」
「……馴らす時間もいるであろう」
「慣らすとは、何に?」
「ヴェルナー・ファン・ツェアフェルトではなく、ただのヴェルナーとして生きることに」
それであればなおさら離宮などではなく街中のほうが良い気がしたがヒュベルトゥスに何か考えがあるように見え、ヴェルナーは曖昧に頷く。

コルトレツィスの離宮は四十年ほど前、ヴェルナーの時が止まり、同じことがヒュベルトゥスの身にも同じことが起きていることを知らされた時に一度、ヒュベルトゥスとごく少数で訪れた場所だった。
そこで話したこと、約束を交わしたことが四十年後の今、こうして同じ馬車に乗っていることに繋がっている。
その時にともに過ごした時間と交わした約束は、王都に戻ってからほとんど触れられず時が過ぎ、まるで夢だったかのような気がしていた。ヒュベルトゥスが崩御を装って自由の身になる前、四十年ぶりに蒸し返されるまでヴェルナーはヒュベルトゥスにその約束を実行する気がもうないのではないかと思っていたのだ。
そしてヒュベルトゥスが崩御したとされた時からさらに五年、リリーが光の向こう側に旅立った後もヒュベルトゥスは全く何の連絡もよこさずにいて、もはやヴェルナーを必要とはしていないのでは? と思い始めたころにコルトレツィス大公が使者として訪れたのだった。
だが、だからこそ、ヴェルナー・ファン・ツェアフェルトとしての人生を全うできた気がしている。
リリーと共に領都で過ごした時間は穏やかに満ち足りたものだった。伴侶としてお互い良き人生を歩めたと、確信できた年月だった。
ヒュベルトゥスはそのために、あえて接触してこなかったのかもしれない。いや、それも考えすぎか。四十年前と同じような意味でこの先を共にしようと思っているとは限らない。なにせ四十年も経っている。自分ももはや六十過ぎ、ヒュベルトゥスに至っては八十過ぎだ。実年齢的には。
時の流れから外れた者同士良き旅のパートナーとして、という程度にしか思っていないかもしれない。
ヴェルナーがちらりとヒュベルトゥスの顔を見上げる。
蒼氷の瞳と視線が交わると、ヒュベルトゥスはにっこりと笑みを深め、その顔を見たヴェルナーの背筋が逆立つようにぞわっとした。なんだか嫌な予感がする。
その予感から目を逸らすように、ヴェルナーは話題を振る。
「道が、随分と良くなりましたね」
馬車の揺れが四十年前に離宮へ向かったときとかなり違うことに気づいたヴェルナーが馬車の窓から外を見て言った。
「海の貿易路から続く街道だからな。おかげで日没前には離宮に到着できるだろう。港もかなり整備された。大公はよくやっている」
コルトレツィスは二国と国境を接し、魔王討伐後も周囲との情勢が落ち着くまで軍事面以外の各地の整備までは手が回らなかった。
近年、周辺国との関係が落ち着いてきて急速に領民の生活や貿易関連の整備が進んでいるという。
「世界はどんどん変わっていっているのですね」
「それをこれから見て回るのだ」
ヒュベルトゥスは楽しげに笑う。
「ツェアフェルト領はどうだ? この五年どのように過ごしていたのだ」
そこからは五年の間お互いがどのように過ごしていたのか報告しあった。
太陽が中天に差し掛かるころ、馬車の窓をコンコンと叩く音がし、返事を待たずに無遠慮に声がかけられた。
「爺さんたち、そろそろ街につくぞ。昼飯の時間だ」
窓から赤髪の斥候の少女が覗き込んで言うと慌てたように「メーリング!」とたしなめる声がした。声を上げたのは大剣を佩いていた青年だろうか。
「…………へ?」
思わず奇妙な声を上げたヴェルナーを見てヒュベルトゥスは声を上げて笑った。
「後程あの二人を紹介しよう。昼飯の時にな」

                    (続く)

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