適当捏造ぼんやり設定多数
王太子妃健在(出てこない)
リリーはヴェルナーの婚約者
一、悪夢の中
薄暗い王都の石畳の上を走っていた。
追ってくるものから逃げるために。
得体の知ない、影のような、闇そのもののような、光を通さぬモノ。気体のような液体のような、視界いっぱいに広がったかと思えば水たまりのようにも縮むモノ。
それはヴェルナーをのったりと追い続ける。
右手には愛用の槍。追ってくるものを幾度薙ぎ払っても手応えは無く、わずかに散ったかと思えばすぐに元に戻る。
全力で走っているつもりなのに身体は重く思うように進まず、見知ったはずの王都の道は妙に狭い。
ヴェルナーの心臓はどくどくと早鐘を打ち、追われる焦燥感に眩暈がした。
ツェアフェルト邸へ向かっているはずが見知らぬ場所に出てしまう。
どうして家までの道が分からないんだ⁉
足を止めた瞬間、どぷり、と吞まれた。
薄暗い山間の集落に居た。
赤く色づき始めた山々の間に、ぽつりぽつりと合掌造りに近い様式の家屋があった。雪深くなる地域なのだろうか。
この世界にこんな建築様式があるのか。
そう思った瞬間、ヴェルナーはぞっとした。
この世界、とは何だろう。今自分が居るのはどこなのか。早く帰らねばいけない。帰ろうとしていたのに何故ここに居るのか?
農作業帰りと思しき集落の人が、親切に帰り道を教えてくれた。教えてもらった道を歩いていたつもりが、違う道を歩いていた。
そうださっきの分岐で違う道に入ってしまったのだ。来た道を戻る。
もう何度も同じことをしている気がする。
また集落の人と行き会った。急がないと日が暮れてしまいますよ。終電ぎりぎりです。
ヴェルナーは走り出した。
また、人に行き会った。駅はあっちですよ、と親切に指差して教えてくれた人の瞳が、じわりと黒く煙った。
見つかった。
またあれに見つかったのだ。
汗が噴き出し心臓がどくどくと音を立てる。
足元にぶわり、と闇が広がった。
走る足に闇が吸い付き重くなる。
槍を足元に突き立てようとして、手に何も持っていないことに気が付いた。
空の右手を見つめた瞬間、どぷり、と沈んだ。
海際の高層ビル群の屋上に居た。
見下ろす視界は夕暮れでもないのに薄暗い。
色彩が無いのだと青年は気づいた。
水平線に沸き立つ黒い積乱雲がじわじわと近づいてくる。
どうやってビルの屋上まで上がってきたのだろうか。覚えていない。
雲がどんどん陸地へ近づくにつれ、風が強くなり青年の髪を巻き上げる。
首筋が妙に寒い気がして右の掌でうなじを擦ると、短く雑に切られた襟足に触れた。
辺りが一層暗くなり、空気も冷たくなってゆく。いつの間にか頭上は黒い雲に覆われてぽつりぽつりと雨が落ちてきた。
手の甲に落ちた雨粒に目をやると、薄く墨の混ざったような色合いをしていた。驚いて空を見上げると、ぽつり、左目に雨が落ちて視界が薄墨に染まった。その視界に更に黒いものが現れる。
海際からビル群が次々と黒く染まっていき、やがてどぷり、と地に沈んだ。
世界が色と温度と光を失ってゆく。
あの黒いモノは虚無そのものだった。
吞まれる度に、外側から何か削り取られていくようだった。
削り取られ薄くなり、自分が消えてゆく。
あんなにも必死に戦ってきたのに。
自分には暖かな、陽だまりのような大事な何かがあった気がする。
美しく強かな、光の元に居た気がする。
しかし青年にはもう、それが何であったか思い出すことはできなかった。
足元のビルが黒く染まり、どぷり、と沈んだ。
二、帰領
その日、ツェアフェルト子爵は婚約者を伴って、ツェアフェルト侯爵家領都ツェアブルクへ出立した。
スタンピード以降、様々な戦いと陰謀、魔王の討伐。それに続く後始末と論功行賞。国内外の情勢調査と慌ただしい月日が続き、ツェアフェルト侯爵も嫡子たる子爵も長らく領地へ帰る暇は無かった。
しかし、魔王討伐以降の情勢変化に合わせた対策と立案にある程度目途が立ち、少し落ち着いてきたあたりで一度領主一族である侯爵自身か、嫡子のヴェルナーが領地の視察と引き締めも兼ね、短期間ではあるが帰領するという話になり、ヴェルナーが向かうこととなったのだ。
落ち着いてきたとはいえ、さすがにまだ典礼大臣を帰領させるのは難しい。陞爵したばかりということもある。
魔王討伐後の懸念対策の中心人物たるヴェルナーを向かわせるのもできれば避けたいところであったが、ツェアフェルト家には領主一族が少なく代わりになる者が居ない。
代官が不足なくその役を務めていたとしても、領主一族の長い不在は領地にとってあまり良いことではない。
ヴェルナーに見るからに疲労が溜まっていたので休養がてら、という理由もあった。
それに加え、ヴェルナーが懸念していた自然災害の予兆が見え始めていたこともある。
まだ災害と言うほどではないが、大雨が続いて小規模ではあるが川の氾濫が起きた、夏の暑さが続いて作物の収穫に影響が出た等の報告が国内各地から上がってきたのもあり、ヴェルナーは一度領地を見回りたいと希望した。
結局のところ休養にはなりそうも無かったが、王城で執務に追い立てられるよりはましだ。
婚約者であるリリーに、結婚前に一度は領地を見せたいという思いもあっただろう。
帰領前にいつも以上に仕事を詰め込み、片づけておくこともあったがこれといった問題も無く帰領の日を迎えたのだった。
ところが王都を出たところで馬車に不具合が見つかりヴェルナー一行は王都邸へ引き返す。
翌日、再度準備を整え一行は改めて領地へと出立した。というのが表向きの出来事。
実は馬車の不具合ではなく、魔将殺し、救国の英雄と称えられる子爵へ危害を加えようという不逞の輩が現れ、返り討ちにされたが、襲撃の際に馬車の車輪が破損したため、一度引き返し、更に警護を見直し再出立したらしい、という話が実しやかに流れた。
が、それも裏事情を装った表向きの話であった。
ヴェルナー一行が王都邸へ引き返したその日の日没直後、聖女でありヴァイン王国第二王女であるラウラが密かにツェアフェルト邸を訪れ、夜半には王太子ヒュベルトゥスが来訪していた。
三、解けない呪い
「呪いを解くことはできません」
歴代最高の聖女と言われるラウラが告げるのと同時に、ヴェルナーの寝室のドアが少し乱暴に開いた。
「詳しく話せ」
「王太子殿下!」
姿を現したのはヴァイン王国王太子、ヒュベルトゥス。
ヴェルナーの父であり、国家の重鎮たるツェアフェルト侯爵家当主、インゴが驚きの声を上げた。
王太子殿下がツェアファルト家に来訪するという先触れは来ていたが、当然貴人向けの応接室に通すはずであった。おそらく執事に強引に寝室へ案内させたのであろう。
扉からヒュベルトゥスに続いて護衛騎士二人が姿を現し、その後ろから申し訳無さそうな顔をインゴに向けてノルベルトが現れた。
「礼を失してすまないが、ヴェルナー卿の様子をこの目で確認したかったのでな」
ヒュベルトゥスが室内を見渡すと、思っていたより多くの人がそこにはいた。
ヴェルナーの寝台、枕元近くに置かれた椅子にラウラが座り、その後ろにツェアフェルト侯爵夫妻、ヴェルナーの婚約者リリー・ハルティングとその兄でヴェルナーの親友、勇者マゼルが立っていた。
そしてマゼル、ラウラと共に勇者討伐を成し遂げた冒険者ルゲンツと僧侶エリッヒ、斥候のフェリックス。
寝台の反対側には、王の師である大賢者ウーヴェが椅子に腰かけていた。
ヴェルナーの額に手をかざし続けているラウラと、ウーヴェを除く全員が一斉に礼を取る。ルゲンツだけはほんの形だけとばかりに、ついと顔を背けながらわずかに頭を下げた。
「このような時に礼など不要だ」
軽く手を上げながらヒュベルトゥスがヴェルナーの寝台に近づく。
エリッヒとフェリックスが壁際に身を引き、ルゲンツも不機嫌そうな顔をしてそれに続いた。
「殿下、愚息に近づきませんよう。どのような障りがあるか分かりませぬ」
インゴがヒュベルトゥスの前に立ち塞がる。
「ラウラとウーヴェ老がそのようにヴェルナー卿の傍近くに添うているなら危険は無いのであろう?」
「なりませぬ殿下」
インゴがヒュベルトゥスを思いとどまらせようとしているところに、ウーヴェの声が割り込む。
「ちょうど良い、ヒュベル。おぬしちょいとこやつに触れてみろ」
王太子を危険に近づけまいとする気遣いを無視した物言いにインゴはわずかに顔を顰めたが、ヒュベルトゥスの視線に促され身を引いた。
寝台の枕元近くの椅子に座るラウラの横に立ち、ヒュベルトゥスは目を見張った。
「これは…どういうことだ?」
寝台にはヴェルナーが眠っている。
だがその顔色は定かではない。
見えないのだ。
「生きてはおる」
ウーヴェがそっけなく言った。
ヴェルナーには、薄く黒い靄のようなものが纏わりついて、その身体から色彩を奪っていた。
「ラウラ、手を引け」
ウーヴェの言葉に頷きラウラがヴェルナーの額上にかざしていた手を引くと、黒い靄がその濃さを増しながら揺蕩った。
「ヒュベル」
王太子に対し、名を呼ぶだけで行動を促すウーヴェに周囲は若干の呆れ顔だが咎める者は居ない。
ラウラが椅子から立ち上がりヒュベルトゥスに場を譲るが、ヒュベルトゥスは座ること無くヴェルナーの寝台に片腕をつき屈みこみ、もう片方の手でヴェルナーの額に触れた。
ヴェルナーを覆っていた黒い靄が散るように薄くなった。
ヒュベルトゥスが眉根をわずかに寄せる。
「……嫌われているようだな」
「兄上もそう思われましたか?」
ラウラも再度身を乗り出してヴェルナーの鳩尾辺りに手をかざした。靄が更に薄くなった。
「呪われた方を診たことは何度かありますが、装具品や武器、場所に仕掛けられた『誰でもいい』呪いではありません」
「子爵自身に向けられた呪いか」
「子爵に対する想いが呪いとなっている…そんな気配がしませんか?そしてその想いの発生源に、私は厭われている気がしました」
神殿や僧侶の元に相談が持ち込まれる呪いは装飾品、武器、魔道具、古い祠に仕掛けられた、触れた者に対して発動するものが多い。次いで、魔族からの攻撃としての呪い。恨みつらみからかけられる呪術師と呼ばれるものによる呪いや、民間にも怪しい呪いなどは存在するが、実際に呪いとして発動するほどのものはめったに無い。
ましてや、呪いをかけられた当人以外に対する感情のようなものが感じられることは無い。
ヒュベルトゥスはこの場に勇者パーティの面々が集まっている理由を察した。国内外各地で魔族と戦い、祠を制してきた彼らは王都の誰よりも様々な状態異常や呪いに詳しいだろう。
「私もそう感じた。ヴェルナー卿のこの状態は呪いのせいで、ラウラを避ける気配を見せた。そして私にも同様ということは…聖女の力を忌避したわけではないということだな?」
ヒュベルトゥスがヴェルナーの額から手を放し椅子に腰かけると、再び黒い靄がヴェルナーを薄く覆う。
「魔王じゃろうな」
ウーヴェがふんと鼻を鳴らす。
「こやつに深い恨みを抱き、王家の血筋を苦手にするものなぞ、魔王以外におらんじゃろう。魔王と前勇者と王家の因縁を思えば…」
「とは言え」
ヒュベルトゥスがウーヴェの言葉を遮るように口を開く。
魔王、古代王国、前勇者イェルク、王家の関係については、魔王討伐後の今でも全てを知るものはわずかだ。大臣職についているインゴですら知らされていないことは多い。
「それでなんでこいつが呪われるんだ?」
ヒュベルトゥスが言葉を続けようとしたところにルゲンツが割って入る。
「ルゲンツ!」
小声でエリッヒが窘めるが、ルゲンツは構わず話し続ける。
「そりゃあこいつは魔王討伐の功労者だよ。こいつが居なけりゃ俺達はまだ旅の途中だったかもしれないし、その間に国はズタボロになってたかも知ねえ。でも実際に魔王をぶっ殺したのは俺達で、それを命じたのは王様だろ?魔王が呪うべき相手は他に居るだろうよ」
ルゲンツが臆すること無くヒュベルトゥスと視線と合わせる。
例えばお前とかな。
瞳で語るルゲンツに、良い度胸をしていると口の端をゆがめながらヒュベルトゥスは左手首をひらりと返し、護衛騎士達の殺気を散らした。
「ルゲンツ『くん』の言う通りだな」
ヒュベルトゥスのわざとらしい君付けにルゲンツは顔を顰めたが言い返すことはせずに口を噤んだ。
「分からんかね?」
ウーヴェがじろりとルゲンツとヒュベルトゥスを見やった。
「絶大な力を持って立ち塞がるでもない、大軍を指揮する身でも、国に君臨する身でもない。視界に入らんような若輩者が、いつの間にかちょろちょろと動き回って企みの根を断ち、流れを変えてしまう。マゼルに自らを生贄とする選択をさせなかったのもこやつじゃ。魔王が長い年月をかけてきた全てを台無しにした。儂が魔王の立場なら、誰よりもこやつを恨むぞ。己を殺した、マゼルよりも。マゼルを差し向けた王よりも」
ヴェルナーの母クラウディアが悲痛に満ちた顔を隠すように俯き、インゴがその肩を抱く
ヒュベルトゥスは大きく息をつき、椅子の背もたれに上体を預け足を組んだ。蒼氷の瞳が、ヴェルナーの生気の無い顔を見据える。
「ヴェルナー卿に異変が起きた時の状況を」
ラウラがリリーに視線を向ける。顔色は悪いが、気丈に頷きリリーが話し始めた。
「王都の城門を出てすぐに?」
「はい、それまでは本当に、いつもと変わらぬご様子でした…。昨夜も遅くまで仕事をされていて、お疲れ気味ではあったのですが、馬車の中で眠るから大丈夫だとおっしゃっておりました」
ツェアフェルト邸から領都への旅立ちを、マゼルがわざわざ見送りにきた。
ヴェルナーは「リリーには悪いけど、馬車の中ですぐ寝てしまうかも」と笑って言った。
マゼルは「無理をしないで早めに宿に入って休んでよ」と親友に苦笑いで返す。
長い旅の間は、その日その日の疲れをちゃんと癒やして次の日に備えるのが肝心だとマゼルは良く知っている。
薄曇りの空の下、両親にいってまいりますと挨拶をし、ヴェルナーとリリーは馬車に乗り込こんだ。
王都の中心部にあるツェアフェルト邸から王都を取り囲む城壁まではそれなりに距離がある。城壁の外に出ようとする頃にはヴェルナーは眠そうに頭を揺らし始め、リリーはその様子を見ながら、王都から少し離れた辺りで横になることを勧めようかしら、クッションも多めに積んでもらったし、などと考えていた。
城壁の門をくぐりしばらくした頃、ヴェルナーが大きく頭を垂れた。
リリーはくすりと笑ってクッションを手にヴェルナーに話しかけた。
「ヴェルナー様、首を痛めますよ。横に――」
その瞬間、ヴェルナーの身体から噴き出すように黒い靄が現れ、ヴェルナーを覆った。
「ヴェルナー様⁉」
ヴェルナーの身体がゆっくりと馬車の座面に倒れ込み、リリーは悲鳴に近い声でヴェルナーの名を呼ぶ。
「リリー…?」
ヴェルナーが薄く目を開き、自分を取り巻く靄を見て驚く。
だが起き上がろうとはしなかった。
「リリー、近づくな…」
「ヴェルナー様!ヴェルナー様!」
「ヴェルナー様⁉」
リリーの声を聞きつけ、馬車の窓から中を覗き込んだフレンセンも主人の異様な様子に声を上げた。
「フレンセン…リリーを近づけないでくれ。王都邸に戻るんだ…慌てた様子を出すな。それから、神官を……」
フレンセンは御者に命じて馬車を止め、乗り込んだ。
護衛騎士達も中を覗きヴェルナーのありさまに目を見張る。
フレンセンがヴェルナーを抱き起こし、名を呼ぶがヴェルナーはわずかに呻くような声を上げて目を閉じた。
「ヴェルナー様!」
「これは…呪いか?」
シュンツェルが靄を払うように手を振るが、靄が消える様子は無い。ヴェルナーにだけ纏わりついていた。
「分かりません…。屋敷に戻ります。先触れを出してください。神官を手配するようにと、奥様に」
フレンセンは騎士を一人、馬でツェアフェルト邸に向かわせ、馬車はゆっくりと何事も無かったかのように王都の中へ引き返した。
先触れの騎士がツェアフェルト邸についたのは、ツェアフェルト夫妻とお茶をしていたマゼルが自邸に帰ろうとしている時だった。
マゼルが叙爵して一年以上経つが、礼儀作法はともかく貴族社会の習わしや儀礼、貴族家の関係性などについてはそう簡単に理解できるものではない。機会があればツェアフェルト夫妻そろって、あるいはどちらかがお茶をしながらマゼルに様々なことを教えていた。
先触れの騎士からヴェルナーの異変を聞いたマゼルは、そのままツェアフェルト邸に留まり、到着したヴェルナーの様子を目にし、すぐさま王都に居るエリッヒと、王城に居るラウラに連絡を取ったのだった。
「呪いが発動するきっかけのようなものは無かったのか?」
ヒュベルトゥスの問いにリリーが首を振る。
「いいえ、目に見えてわかるようなものは、なにも。馬車の外に居た騎士の皆様も、周囲で何か怪しいものを見たり、聞いたりはしなかったとのことでした」
ヒュベルトゥスが寝室の扉近くに控える護衛騎士に視線を向けると、護衛騎士の一人が軽く頷きヴェルナーの寝室から退室した。ヒュベルトゥスの意を受けてツェアフェルト家の騎士達から聞き取りをするためだ。
「呪いのきっかけは分からないのですが…、ヴェルナー様を取り巻く靄のようなものは、城壁内に戻った時に薄くなったような気がしました」
リリーの言葉を聞いて、ラウラが右の掌を頬にあてて首を傾げる。
「王都の結界が影響を与えたのか、偶然そうなったのか…分かりませんね。私や兄上を忌避するところから、偶然ではなさそうな気がしますが…」
「それで」
ヒュベルトゥスが横に立つラウラを見上げる。
「呪いが解けないとはどういうことか」
親子ほど年の離れた異母兄妹の視線が交わる。
「私は呪いには詳しくないが、ヴェルナー卿の意識を奪っているのがこの靄のようなものなのだとしたら、それほどの力を感じないのだが」
ラウラが頬に添えていた手の指先をこめかみにあてきゅっと目を閉じ、開いた。
「呪いを解く時は、その発生源になっている呪物や魔道具の構造を解明して無効化するか、壊す。あるいは呪いを上回る力を持つ神官の祈りで解くことになるのはご存じでしょう?」
「ああ」
「これは、これといった根拠の無い憶測なのですが」
ラウラの瞳が生気の無いヴェルナーの顔を見つめる。
「今、ヴェルナー卿に纏わりついている靄は呪いの本体ではないのではないかと」
「本体とは?」
「呪いの核というか、呪いを発しているもの…? 上手く言えないのですが」
「ではこれは何なのだ?」
ヒュベルトゥスがヴェルナーの周りに漂う靄を摑むような仕草をしたが、靄はヒュベルの手に触れる前に逃げるように散る。
「呪いの本体からヴェルナー卿の身体を通して零れ落ちる残滓…でしょうか」
「ヴェルナー卿の身体を通して? 本体はどこに居るというのだ」
「ヴェルナー卿の魂と共に、ではないかと」
「魂? どういうことだ」
「呪われているのは、おそらく子爵の魂そのもの。ですが、子爵の魂はここには居ないのです。呪いをかけられた対象も、呪いの本体も居ないので、解呪の手立てが分かりません」
「魂が…? 光の向こう側に旅立ったということか?」
ヒュベルトゥスの低く鋭い声に怯む様子も無くラウラは首を振る。
「いいえ、まだ魂はあちらに渡っていない、魂と身体はかろうじて繫がりを持っています。それを辿って身体にも呪いが零れ落ちているのだと思います。ただ…どうすれば魂が身体に戻ってくるのか、それが分かりません」
「ヴェルナー卿の魂を捕らえているのが、呪いの本体か」
じわり、とヒュベルトゥスの身体から周囲を威圧する気配が滲み出て、ヴェルナーの寝室に集まった者達の皮膚をぴりぴりと刺激した。
「ヴェルナーの魂を取り戻せなかったら、どうなるの?魔王がまだ生きているというのなら、今すぐにでもヴェルナーを助けに行く。でも僕達は何と戦ったらいいんだ」
ぐっと両の手を握りしめたマゼルの瞳が、倒すべき敵を見いだせずに彷徨う。
「マゼル、そもそも呪いが魔王によるものというのも、ウーヴェ老の推測に過ぎません。魔王と対峙した我々の直感が、その推測を否定しがたく感じているのは確かですが…それも何某かの欺瞞によるものである可能性もあります」
マゼルを宥めるように言うエリッヒにしても、おそらくウーヴェの推測が正しいのだろうと思っている。
「ヴェルナー卿の魂を捕らえているものが何であろうと、このままの状態が続けば身体が衰弱していくのは間違いありません。ポーションを服用しても、いずれは限界が来るでしょう。そして…」
エリッヒが大きく息をつく。
「命が絶えたとしても、このままでは子爵の魂は光の向こう側に行くことすらできないでしょう」
静まり返った寝室に、いつの間にか降ってきた雨が窓をたたく音が響いた。
「――ノルベルト、皆さんを部屋にご案内しなさい」
青白い顔をしたインゴがノルベルトに指示を出す。
「もうこんな時間だ、今宵はこちらに泊まっていくといい」
ルゲンツ達にそう告げると、ヒュベルトゥスとラウラに向かって頭を下げる。
「殿下方は…王城にお戻りを。愚息のためにご足労頂き誠に恐悦ではございますが、こちらに長居してはなりません。今後のことについては明日王城にて…」
未だ真偽が定まってはいないが、魔王の呪いを受けたと思われる者が居る館に王族を留めておくことはできない。
どんな障りがあるかも分からず、そのような危険な状況に王族を留めたことが知られたらツェアフェルトは非難されるであろうし、軽率な行動としたとヒュベルトゥス達が謗られる可能性もある。
ノルベルトに促されて、ラウラを除く勇者パーティの面々が退室のために動き出し、フェリックスが名残惜し気にヴェルナーの寝台を振り返る。
「オイラ達、ほんとに何もできないの?」
普段の陽気さを見せず、沈鬱な顔でフェリックスが悔し気に俯く。
「オイラ達も、街のみんなも、騎士団の人たちだって、たくさんヴェルナーのアニキに助けられたし、国のために、たくさん働いたんでしょ? 国だって、アニキのために何かしてくれるよね?何もしてくれないならオイラ…」
「フェリ、落ち着いて。まだこれからですよ。呪いの本体について何か手掛かりが見つかれば、ラウラ殿下や神官の手で解呪することもできるかも知ません。神殿のものも魔術師達も、ウーヴェ老も力を尽くして調べてくれるでしょう」
フェリックスの肩に手を置き宥めるエリッヒの横で、ルゲンツが吐き捨てるように言う。
「どうだかな。貴族達なんて足の引っ張り合いばっかりしてる連中だろ? こいつを邪魔に思う奴らが、ここぞとばかりに貶めるんじゃねえのか」
ルゲンツの言うとこは正しい、とヒュベルトゥスは思う。
魔王の呪いを受けて昏倒し目を覚まさぬ者に貴族達が向ける目は冷たいものになるだろう。
ヴェルナーの功が飛びぬけていたとしても、救国の英雄だとしても、それでもまだヴェルナーは年若く、国家の重鎮ではない。潰すなら今だ。あれだけの功を成したのに、惜しいことでしたね。残念なことです、ですが一子爵が受けた呪いのために国が動く必要など無い、ツェアフェルト侯爵家でどうにかするべきだ、などとぬけぬけと抜かすだろう。
解呪できたとしても、魔王の呪いを受けた身など王城に登らすべきではないとも言うかもしれない。
ヒュベルトゥスが立ち上がり背後の者達に向きあう。夜陰に紛れるために纏っていた黒いマントが、翻った。
蒼氷の瞳が、いつもより深い青に変じているのに気が付いたのは、インゴとラウラのみだった。
「ヴェルナー卿は王太子宮で預かる」
四、金色
薄暗い繁華街の路地裏を、黒い靄が蠢いていた。その場に誰か人が居たとしたらそう見えていただろう。
だが青年が歩いている路地裏には誰も、人以外の生き物も、何も居なかった。
あの真っ黒な虚無に飲み込まれる度、青年からは己が何者であったのかの記憶が奪われていく。
己に纏わりつく靄が濃くなっていく。
虚無は己を少しずつ削り取っていった。
もう自分が何という名だったのかも、どこでどう暮らしていたのかも、何故このようなところに居るのかも、分からなかった。
ただ、あの虚無が追ってくることだけは分かる。
だから、ただ逃げている。どこに逃げればいいのかは分からない。ただひたすらに歩いている。
もう目も良く見えない。全てが黒く霞んで、輪郭も曖昧だ。
色彩の無い世界をのろのろと歩む。
ぞわり、と背筋が泡立った。
またあれがくる。
焦燥感が募るが足は思うように動かない。壁に手をつきながら、縺れそうになる足を必死に動かす。
思うように動かない身体に、涙が溢れる。その涙も黒く濁ってますます視界が黒く染まる。自分が何に抗っているのか分からない。抗う必要があるのだろうか?
もう、あの闇に飲み込まれて、消えてしまえばいいだけじゃないか、何をこんなに頑張っているんだ?
青年の足が止まる。路地にごろりと転がる。
薄汚い路地を力なく見つめる目が閉じられようとした時、青年の目の前に金色の砂が舞った。
金色の光が、砂時計の砂のようにどこからかさらさらと落ちて舞っている。
この世界で唯一の光彩。
のろのろと手を伸ばして、砂金のようなそれに触れる。じんわりとわずかに暖かく触れたそばから消えていった。
ずるずると這って金色の砂の舞い落ちる下に入り込む。
砂はふわりと青年の身体の周りを舞って、消えた。
青年は身体を起こす。
空を見上げるがもう金色の砂は見当たらない。
少し、視界が明るくなって、思考力が戻ったような気がした。
金色の砂は、虚無と対極の存在のように感じた。
虚無は己の存在、来し方を消し去ろうとするもので――
あの光は俺を望んでいる。
青年は、またのろのろと歩き始めた。
五、魂を辿る道
薄暗い王都の石畳の上を歩いていた。
カツン、カツンと靴音が響く。
今となっては、自分の足で歩く機会の無い城下町だが、学生の頃はそれなりに歩いた道のりだ。
だが記憶にある街並みとは何かが違う。妙に歪に見える。
街中は薄暗く、人影は無い。思ったように足が進まない。
――まあ、夢とはこういったものだな。
だがこれは夢なのだろうか? 夢にしては妙に意識が明晰な気がする。
ふむ、と首をひねりながらも歩き続ける。
石畳の路地の上に槍のようなものが転がっていた。
すぐに近づくようなことはしない。周りを伺い、怪しい気配が無いか探り、落ちている物へと近づいた。
やはり槍だ。
すぐに飛び退くことができるよう用心しながら屈みこみ、落ちている槍に触れた。
槍はまばらに錆のような黒い染みに侵食され、ボロボロだった。
「これはヴェルナー卿の…?」
見覚えのある、勇者から贈られたという槍に似ている。
手に取ろうとすると槍は崩れて、やがて消えた。
ヴェルナーがここに居て、何かと戦ったのだろうか?
槍の様子からして、ヴェルナーの身体を取り巻いていた、あの黒い靄か、それとも、魔王か?
「ここは、ヴェルナー卿が捕らわれた世界か…?」
独り言ちながら立ち上がる。
路地の先に、黒く長い髪が一筋、落ちていた。
ヴェルナーの跡を、辿れるか?
それとも何かの罠か?
蒼氷の瞳が路地の先を見据える。
ヴェルナーの魂がこの夢の中のような世界に居るのだとしたら、ここは魔王の呪いが作り出した世界なのだろうか。魔王の魂も存在しているのだろうか。そして、己を破滅に導いたヴェルナーを恨み、殺そうとしているのだろうか。それはどうも違う気がする。
魔王は、完全に滅ぼされたはずだ。
この世界にもやはりそれほどの力を感じない。それはまだ呪いの本体と対峙していないからかもしれないが――。
そして自分は? 今、魂のみの状態でヴェルナーと同じ世界に存在しているのだろうか?
魂だけ身体を抜けているとしたら、ヴェルナーのように身体に戻れなくなる恐れは無いか?
ヴェルナーを諦めるつもりは無いが、己の身を引き換えにすべきではないことも分かっている。
ラウラは、ヴェルナー卿の魂と身体はかろうじて繫がっていると言っていたな。
そう思い出して、自分の身体との繫がりというものは分かるものなのだろうか、と目を閉じて身の内…魂の内だろうか? に感覚を向ける。
目を開けると、そこは寝室だった。
自分の寝室ではない。
王太子夫妻が共に過ごすための寝室、その寝台の上。
ヒュベルトゥスは自分の胸の内にヴェルナーの頭を抱え込んだ体勢で、目を覚ました。
六、秘密を護る女達
ヒュベルトゥスはヴェルナーの頭の下に回していた腕をそっと引いて上体を起こした。
抱え込まれていたことで乱れたヴェルナーの長い艶やかな黒髪を、手櫛で整えてやる。
天蓋から垂れ下がる薄絹を通して入り込む朝日が、黒髪にやわらかく当たり、薄く青い色を散らす。
ようやく、まともにヴェルナーの顔が見られた気がする。
ツェアフェルト邸で眠るヴェルナーは黒い靄に覆われて、顔色もまともに見えない状態だった。
いささか強引に王城へ連れ帰ったが、王城に入った途端、目に見えてヴェルナーを取り巻く靄が薄まりヒュベルトゥスは安堵の息をついたのだった。
まだ何一つ解決したわけではないが、ヴェルナーの身体を蝕むモノの勢いが削がれたのは良いことだ。
己が傍に居れば靄はほぼ出てこない状態になった。
これでツェアフェルト侯爵夫妻に、少しは安心できる報告ができるだろう。
昨夜、ヴェルナーを預かると宣言した時に、ツェアフェルト侯爵インゴは強く反対の意を示した。
「なりません! このように呪われた身を王城に置くなど、ましてや王太子宮にとは!」
ヴェルナーと良く似た黒い瞳でひたとヒュベルトゥスの瞳を見返していた。王の重臣たるインゴの、怯んだ姿をヒュベルトゥスは見たことが無い。腹の据わった男だ。
「この呪いは王族に対しては無力であるようだ。王都の結界がわずかなりとも呪いを抑える力があるなら、王城ならなおさらだろう。ラウラもヴェルナー卿の様子を見やすい。これ以上無い環境ではないか」
「害が無いとは限りません。ヴェルナー自身も、呪いを受けたこと、そのような身で王城にて世話を受けたことが知れば、解呪できたとてその後に大きな謗りを受けるでしょう」
「謗りを受けたとて、ヴェルナー卿はさして気にもしなそうだが――」
ヴェルナー卿が魔王の呪いを受けて明日をも知ぬ身だ。そう話が広まると、ヴェルナー卿を引きずり下ろしたい輩が良からぬ動きをし始めるだろう。
ルゲンツの言った通りだ。貴族社会に留まらず、権力のあるところでは必ず起きる水面下の醜い争い。
だからこそ――
「今しか無いぞ、インゴ卿。今なら誰にも知られず私と共に王城に運び込めるだろう。朝になれば、ヴェルナー卿が王都に引き返した話も知れわたり、何があったのかと詮索されるだろう。今の内にヴェルナー卿を王城へ運び、王太子宮の誰にも知られぬ場所で匿う。ツェアフェルト家は、何事も無かったかのように、明日またヴェルナー卿を領都へ送り出すのだ」
「しかし…」
「いや、何も無かったのではない。ヴェルナー卿は、卿をねたむ者に襲撃を受けた。襲撃者は難なく退けたが、何名かは逃亡、馬車に損傷を受け、襲撃者調査の手配のため一旦館に戻り、そしてまた旅立った。襲撃があった故、護衛を増やし、道中姿を見せることも無い」
ヒュベルトゥスはリリーを見つめた。
「執務で無理をしていた上に、襲撃、長旅。ヴェルナー卿はツェアブルクで体調を崩ししばらく寝込むことになろう。ポーションでその場しのぎをせずにゆっくり休息を、歩き回ったりせずな。たまに領都の朝市で婚約者が自ら、ヴェルナー卿に食べてもらう果物を買う姿などを見せてやるといい」
リリーは戸惑い、インゴとヒュベルトゥスの顔を交互に見る。
「ヴェルナー卿が何事も無かったかのように戻れる場所を、護るのだ」
リリーははっと目を見開き、力強く頷いた。勇者に良く似た緑の瞳に光が宿る。
「承りました」
インゴはまだ承諾しない。
「王太子宮のどこに匿うのですか? どこであろうと今まで居なかった者が居て、世話をする者や、ラウラ殿下が出入りすれば情報が漏れないことなどありません」
「世話をする者やラウラが出入りしても何の問題も無い場所がある」
「……王太子殿下の居室ではありますまいな…?」
ヒュベルトゥスはインゴの眉間の皺が深くなるのを見てふっと笑った。
「私の部屋はなにかと人の出入りがあるからな…。寝室なら良いか? だが、それよりももっと良い部屋がある」
「それは…?」
「インゴ卿ほどの重臣に、心当たりが見つからぬというのが、その場の秘密が護られているという何よりの証拠だ」
そして今、ヴェルナーとヒュベルトゥスが居るのは王太子夫妻の寝室の寝台である。
ヒュベルトゥスの居室ではない。インゴに噓はついていないが、知らない方が幸せだろう。
じわり、とヴェルナーの身体にわずかに黒い靄が立ちのぼるのを見て、ヒュベルトゥスは魔獣の羽から作られた薄く軽やかな羽毛の夜具をめくり、ヴェルナーの身体を払うように撫でる。靄はすぐに霧散した。
これほどまでに嫌うのであれば自分をこそ、呪えば良かったのだ。
身の内に昨夜からふつふつと湧きあがる怒りがある。ツェアフェルト家で、ヴェルナーのありさまを見た時から。
何ゆえ、彼がこのような目に遭わなければならないのか。
予言書のせいか。別の世界を生きた記憶のせいか。
魔王にとって、ヴェルナーという存在は異質なもので、全てを狂わす原因だったからか。
ウーヴェ老から予言書の話を聞いた時、老はヴェルナーに別の世界を生きた男の記憶があるという話をした。ヒュベルトゥスにのみ話したのは、おそらく深い考えがあってのことではなく、勘のようなものだったのだろうが。
実際そのことを知られているとヴェルナーが知ったら、王族に対する警戒心が上がったであろう。
己の異質さを知っている王族が自分をどう処遇するかと。
ヒュベルトゥスも素知らぬ顔で、予言書の話に乗った。
『この世界の話』に落とし込まれた設定に。
ヴェルナーを異質なものとはしたくなかったのだ。そう思われているとヴェルナーに感じさせたら、どこか常にこの世界を俯瞰してみているような、それを誰とも共有せずに一人で戦っているような危うさに拍車がかかる気がしたからだ。
そうしてヴェルナーを利用した。
だが、利用された者が行ったことの責任は、利用した者にある。
この王国に君臨する王と、内政と軍事を司る自分が全て負うべきものだ。
しかし、魔王の恨みを一身に受けてしまったのはヴェルナーだった。魔王にしてみれば、ヒュベルトゥスの存在自体も、ヴェルナーによって引き起こされた不正な存在に過ぎなかったのかもしれない。
だからこそ、ヒュベルトゥスはヴェルナーを取り戻すことを諦めてはならないのだ。
ヴェルナーに全てを負わせることだけはできない。
ヒュベルトゥスは手の甲でヴェルナーの頬を撫でた。
ヴェルナー卿にこのように触れることがあるとはな。
薄く笑いながら、幼子相手のように優しく撫で続ける。
利発で警戒心の強い猫のような青年だ。
触れてみたいと思ったことはある。
その感情が、懐かぬ利口な猫を手懐けてみたいという遊び心なのか、それとも他に何か起因するものが己の内にあるのか、ヒュベルトゥスには分からなかった。
身内でも友人でもない青年を、抱えて眠るほどの想いがあるのか?
追及する必要は無い。すべきことをしているだけだ。
だが、己だけがこうしてヴェルナーを救えるのかもしれないという状況に、ほんのわずかに酩酊するような心地よさをヒュベルトゥスは感じていた。
今少し、この心地よさを深めたいという思いがわいてくる。
指先で、ヴェルナーの唇に触れたその時。
コンコン、と扉をノックする音が響いた。
「入れ」
ヒュベルトゥスは入室の許可を与える。
王太子夫妻の寝室は、ヒュベルトゥスの寝室と、王太子妃の寝室からそれぞれ小さな小部屋を挟んでつながっている。
ノックされた扉は王太子妃側の小部屋からのものだった。
「失礼いたします」
入室してきたのは王太子妃の侍女頭だった。
「こちらでお仕度なさいますか?」
「ああ」
返事をするなり洗顔等の身支度の道具を持った侍女達が三名入ってきた。
侍女の事務的な世話を受けながら、ヒュベルトゥスは妻の侍女頭の話を聞く。
「ツェアフェルト子爵のお世話ですが、朝晩の二回、お湯に浸した布でお身体を清め香油にて保湿と、軽くマッサージを施します。その後、果実水に砂糖と塩を加えたものを摂取頂きます。少しずつなら嚥下していただけることは昨夜確認済みです。その他に水の摂取は朝から晩の間に三回を予定しています。その都度、お身体を少し動かせて頂きます。その後口内の洗浄。ポーションについては、夜のご様子次第で摂取頂くか判断いたします」
侍女頭は無表情のままつらつらと述べていく。
夫婦の寝室に他人を連れ込んだことを非難してのことではない。彼女はヒュベルトゥスに対しては常にこの態度だ。
彼女にとって仕えるべき価値のある者はただ一人で、ヒュベルトゥスはそのおまけ。ヒュベルトゥスの命を聞くのは、彼女の主にとって最適な環境を提供してもらうための副次的な職務だった。
「それで良い」
「ツェアフェルト子爵のお世話をする侍女には、ラウラ殿下より賜った護りの力を込めた魔石を持たせますので、問題は無いでしょう」
「うむ」
ヒュベルトゥスは朝の仕度を終え、立ち上がる。
王太子妃の侍女頭である彼女と、王太子妃は血の近い親戚で、姿形が良く似ている。めったに王宮に居ない王太子妃の影武者も務める身だ。
侍女達は皆、王太子妃の国からついてきた者達と、学園時代に親しくなった友人のみで、結束が固い。
主の不在を悟らせることの無い彼女達に任せておけば安全だ。不在の主の世話をする振りが、ヴェルナーの世話にすり替わるだけなのだから。
王太子妃の秘密を護る女達に後を任せてヒュベルトゥスが自室に戻ると、渋い顔をした友人二人が待ち受けていた。
「何だその顔は」
ヒュベルトゥスが不満げに言うと、二人の内の一人、メーリングがヒュベルトゥスのつま先から頭の先までじろじろと見やり、顰め面のまま口を開く。
「お前…、意識の無いヴェルナー卿に変なことしてないだろうな」
「変なこととは何だ」
「手を出してないかってことだよ」
「お前は私を意識の無い臣下に手を出すような男だと思っているのか」
「ただの臣下と共寝するかね? しかも呪いに侵された」
「それをするだけの理由と価値があるだろう。ヴェルナー卿には」
「だとしても、別の手段を取ったと思うがな。いつものお前なら」
「何が言いたい」
「その辺にしておけメーリング」
メーリングを止めるもう一人の友人、ファスビンダーとて渋い顔に変わりは無い。
「本当に良からぬことはしていませんね?」
「……私はそんなに信用が無かったか…?」
ヒュベルトゥスが不貞腐れた顔をしてみせる。
「いくら妃殿下不在とはいえ、夫婦の寝室で臣下と共寝とは…」
「最善の場所だろう」
「……もういい、さっさと表に出る仕度をしろ。」
メーリングが勝手に寝台の脇机に置かれた鈴を鳴らす。
ヒュベルトゥス付きの侍女達が入室してくる。
「ご朝食はどちらで」
「ルーウェンは?」
「食堂で召し上がるようです」
「ではそちらに」
侍女達は手早くヒュベルトゥスに表向きの服を着付け退室していった。
「しばし待て」
ヒュベルトゥスは寝室にある小さな文机の引き出しから小さなナイフを取り出した。
魔皮紙を切り裂くためのナイフは柄の部分は銀製で、小さな宝石が散りばめられている。装飾過多だが刃は鋭い。
ナイフを手にヴェルナーの居る寝室へ向かう。
「何をするつもりだ?」
「思いついたことがあってな」
夫婦の寝室に戻ると、侍女達がヴェルナーに果実水を飲ませ終わったところだった。
ヴェルナーの背にクッションをいくつかあて、上体を少し起こした状態から横にならせようとしていたのを止める。
ヒュベルトゥスから離れたせいか、ヴェルナーの身体にはわずかに黒い靄が発生していた。
ヒュベルトゥスの手に握られたナイフを見て侍女頭が眉を顰める。
「何を…」
ヒュベルトゥスは黙ったまま寝台の横に立つと、左手の親指を浅く切りつけた。
そしてそのまま寝台の上に屈みこみ、反対側に居る侍女に支えられたヴェルナーの眉間から額にかけて、小さな紅玉のように血が溢れた親指を擦り付けた。
黒い靄が霧散した。
「効果があるようだな」
ならば口に血を含ませればもっと効果があるのではないか?
ヒュベルトゥスがそのまま親指をヴェルナーの唇に這わせ、口に含ませようとした時。
「殿下!」
侍女頭から強く咎められる。
「よほどの命の危機にあるならばともかく、本人の意思も確認できない状態でいきなり他人の血を口に含ませるなど、いかがなものでしょう?」
「……そなたのいう通りだな」
ヒュベルトゥスはおとなしく身を引き、ヴェルナーの身体を支えていた侍女に軽く頷く。
ヴェルナーがそっと横たえられた。
額にヒュベルトゥスの血が赤く滲んでいる。
「まるで所有物にご自分のお印をつけるようななさりよう」
「そのようなつもりは無いが」
友人達に次いで妻の侍女頭にまでなにやら批判めいたことを言われてしまった。
なるほど印か。
魔王に奪われるくらいならば、自分の印を刻むくらい、いかほどのことだろうか。
自室に引き返しながらヒュベルトゥスは切りつけた親指の傷をちろりと舐めた。
疼きが生まれる。
指先ではなく、腹の底で。
七、力の向く先
「まあ、呆れたこと」
ヴァイン王国第二王女ラウラはヴェルナーの額につけられた血の跡を見て声を上げた。
確かに護りにはなっていますけど……。
不思議と鮮やかな血の色のままの『印』
ヴァイン王家は聖女の生まれる血筋だ。
生まれてくるのは三世代に一人居るかどうかというところだが、皆優れた資質を持つ聖女だった。
だがラウラは『聖女』としての力の発現の仕方をする者がまれに出るというだけで、王家の血を濃く引くものには『魔』に対抗する力がある程度備わっているのだろうと思っていた。
だからこそ、魔族に身体を狙われた。
丈夫で、力の振るえる器として。
心のひびをこじ開けて。
優しく嫋やかだった人の面影を振り切るようにラウラは頭を振った。
白い指先を額につけられた印に触れるか触れないかの位置まで近づけると、わずかにぴりぴりとした感触があった。
ラウラはため息をついた。
全くどういうおつもりかしら?
力を持つ者の、強く指向性のある意志によって力の発現の仕方というのは異なってくものだ。
ヴェルナーにつけられたこの印はどのような想いでつけられたのだろう。
ラウラはヴェルナーの眠る寝台に守護の結界を張る。
呪いが結界の内側、ヴェルナーの身の内から現れているため、防ぐという点では意味が無いが、抑え込む力はある。
身体への影響を少しでも抑えられるといいけれど。
「お待たせいたしました、『お義姉様』」
ラウラは王太子妃の部屋に戻ると、今は王太子妃の装いでお茶の席についている王太子妃の侍女頭に声をかけた。
侍女頭が立ち上がり、席についたラウラのカップにお茶を注ぐ。
「いかがでしたか?」
ラウラがお茶を口にし、一息ついたところで侍女頭が訪ねた。
「ヴェルナー卿のお身体についてはしばらく大丈夫そうです。問題は、魂をどう身体に戻すかですね…」
魂が、光の向こう側に渡るわけではなく身の内を離れてしまうという話は無いわけではないが、大怪我をした、心に大きな衝撃を受けた、などが大体の理由でしばらくすれば戻ってくるか、魂に呼びかける祈りをするなどの方法がある。
しかし、ツェアフェルト邸でも、先ほども、ヴェルナーに呼びかけの祈りをしても全く手応えを感じなかったのだ。
通常であれば、魂は身体を離れてしまっても、近くに存在していることが多い。
ヴェルナーの魂は捕らえられているのか、どこかに閉じ込められているのか反応が無かった。魂と身体のつながりを辿れるような、呪いの伝い漏れるところを逆流するようなイメージで祈ってみると、何か辿れたような感触はあったが、そこまでだった。できるだけ聖なる力を送り込んではみたが…効果はあっただろうか。分からない。
だが、ヴェルナー卿の魂を辿れるほどに、ヴェルナー卿の気配が希薄になっていくように感じられたのが、ラウラには不安だった。
呪いの力についてはやはり、あまり強いもののようには感じなかった。
魔王の呪いならば、滅ぼされたはずの魔王が生きているのか、魂が残っているのか、何某かの媒体によって力を残しているのか、そのような可能性を考えたが、どうにも違う気がする。滅ぼされた魔王の強い恨みの残滓が、世界に漂っていて、何かが噛み合ってヴェルナー卿に呪いとなって襲いかかったのではないか。
ヴェルナーに接したヒュベルトゥスとラウラは、話し合ったわけでもなく同じような考えに至っていた。
この後で、地下書庫にこもるウーヴェ老のところに伺ってみようと思いながらラウラは顔を上げる。
「それにしても兄上のご様子は…」
「畏れ多いことですけれどおかしゅうございますね」
「んっ」
ラウラは口にしたお茶を危うく吹きそうになり、むっと愛らしく侍女頭を睨め付けた。
「人材収集癖がございますし、有能なだけでなく、あの方の琴線に触れた方は何らかの方法で囲い込まれてしまうものですが…」
侍女頭が自分の主の身に起きたことを思い起こして少し遠い目になる。
「いつもはとても『上手く』やりなさる。ツェアフェルト子爵もそのように囲い込まれていると思っていましたが、どうも違うようですね」
「そうね…」
ラウラとて、ヴェルナーのことは個人的にもとても好ましく親しく思っている。王家の者としても、大恩があるヴェルナーを救うことに力を尽くすことは当然だ。
だがヒュベルトゥスは今までと違う執着をヴェルナーに持ち始めているような気がする。
魔王に奪われそうになっているから…?
今まではヴェルナーがどう立場を変えようと、子爵になり、第三厩舎長になり、婚約者ができ、伯爵家嫡子から侯爵家嫡子となっても、ヒュベルトゥスとの関係が変わるようなものではなかった。
間もなく結婚しようとも、子ができようとも、変わらず王太子殿下のお気に入り、有能な忠臣として傍に居たであろう。
だが魔王の呪いを受けて目を覚まさぬヴェルナーを見て、滅ぼしたはずの魔王にヴェルナーの魂を奪われたと知った時。
兄の身の内に潜む何かが表に現れてしまったのではないか、とラウラは思った。
力を持つ者の、強く指向性のある意志……。
ラウラの脳裏にヴェルナーの額に擦り付けられた、ヒュベルトゥスの血の跡が浮かんだ。
あれはヴェルナーにとって、護りになるのか、それとも新たに彼を縛る呪いになるのか。
ラウラには分かりかねた。
八、痕跡
またひと房、長い艶やかな黒髪が落ちていた。
屈みこみ、拾い上げたそばから崩れて風に消えてゆく。
ヒュベルトゥスの掌に、覚えのある感触だけが残る。
顔を上げて驚く。
いつの間にか、とてつもなく高い塔の上に居た。
ヒュベルトゥスは貧弱そうな格子状の囲いに手をかけながら辺りを見渡した。
「あれは、海か?」
遠くに水平線が見えた。
ヒュベルトゥスが海を見たことは片手で数える程度にしか無いが、何故か懐かしさを感じた。
地上には、海際ぎりぎりまで見たことも無いような高い塔が乱立していた。
自分の足元や塔内に入る扉を見れば、灰色のハレックと金属で作られているようだ。そして塔の表面積の半分はガラス張りの窓。
どのような技術で作られている塔なのかさっぱり分からないが、何とも味気ない意匠だ。古代王国時代のものとも違う。
ヴェルナー卿の知る「違う世界」とはこのような場所なのだろうか?
だとしたら随分と技術の進んだ世界だったのだろう。
これだけの高さの塔を、自重で潰れも、傾ぐことも無く建てることができるとは。
ヒュベルトゥスは街並みを見下ろしながら、ヴェルナーの発想がこのような世界からもたらされたのかと考えた。
発想の基がなんであれ、それを有益で実効性のある提案に落とし込んでいるのはヴェルナーだから有能であることにはかわりない。
立案と提案に加え、それを実行する能力。効率的で質を保つ運用手法の確立、努力を惜しまず、気遣いもでき、欲は無い。
全く良くできた臣下だな、とヒュベルトゥスは薄く笑う。
早く取り返さねば、と塔内に繫がる扉に向かう。
つま先に、こつりと何か当たり転がってゆく。
ヴェルナーの髪留めだった。
手に取るとすぐにまた消えてしまうかと思ったそれは、ひんやりとした重さのまま掌に残った。
ぞわり、と足元から不快感と焦燥感が立ち昇り眩暈がした。
癖のある金の髪が揺らめく。
ヒュベルトゥスはそんな自分の状態に驚いた。
落ち着け、何故それほどに心を揺らす。
ヒュベルトゥスは自分の状態を理解しようと深呼吸する。
髪留めは落ちていたが、血痕も争った形跡も無い。
魂が血を流すかどうかは分からないが。
折れた槍、点々と地に落ちた髪、そして髪留め。
ヴェルナーが幼い頃、ヴェルナーの兄は光の向こう側へ渡った。馬車の事故で、ヴェルナーをかばうように亡くなったという。
その後から、ヴェルナーは槍を持ち、鍛錬と勉学に打ち込んだと聞いている。
髪も、その時から伸ばしていると。
ヴェルナーが、ヴェルナーとして築き上げてきたもの。
ヴェルナーの魂から、その象徴と言えるような部分が徐々にそぎ落とされているようだった。
ヴェルナーの元にたどり着いた時、そこに居るのは果たしてヒュベルトゥスの知るヴェルナーだろうか。
そう思うと喉の奥が詰まるような不快感があった。
ヴェルナーを失うかもしれないということは、これほどまでに自分に不安定さをもたらすことであっただろうか。
ヒュベルトゥスは髪留めを持っていない方の掌を喉元にあて、ごくりと唾を飲み込む。
ここは良くない。
むき出しの魂の無防備さにぞっとした時、ヒュベルトゥスは目を覚ました。
ヒュベルトゥスはゆっくりと寝台の上で身体を起こした。
夜着が汗を吸って、じっとりと肌に張り付いている。
静まり返った寝室に己の心臓の音が鳴り響く。
落ち着け、魂の不安定さに引きずられるな。
傍らで眠るヴェルナーの顔を見てほっとした。
頬に触れるとわずかに暖かい。
ここに連れてきた当初は、死人のように冷たい身体をしていたが、ラウラと王太子妃の侍女達の手厚い看護で良い状態を保っているのだろう。
非常時とはいえ、ヴェルナー卿はこの状態を良しとしないであろうな。
魔王の残滓のようなあの呪いは、たまさか何かが噛み合って、ヴェルナーの魂に干渉できたのであろうか。
無防備になったヴェルナーの魂は、その存在を憎んだ魔王の残滓にいとも簡単に削られてしまうのか。
そうはさせぬ。
大した力も持たぬ残滓にそれができるのであれば、己もそれができるはずだ。
夜明けにはまだ少しある。
ヒュベルトゥスは再びヴェルナーの隣で横になった。
口づけを、したい。
その気持ちを抑えて、黒い髪に、鼻先を埋めた。
九、光明
唇に何か触れた気がして、青年は目を開けた。
自分がアスファルトの上に寝転んでいたことに気が付く。
金色の砂がさらさらと、降り注いでいた。
日の光が砂になったような、砂金のような、これが降り注いでくると、青年は少し元気になるような気がした。
金色の砂は青年の身体をさらりと滑り、溶けるように消える。
金色の砂が降り注ぐようになってから、虚無に捕捉されている感じが弱くなった。おかげで少し、気が楽になった。
青年は降り注ぐ金色の砂を掌で受け止める。
落ちる傍から消えていったが、やがて少しずつ掌に溜まっていった。
ぎゅっと掌を握る。わずかに熱を感じた。
青年は握った掌を唇にあてた。
俺は、まだ生きている。
前にもそんな風に思ったことが、あったような気がした。
十、地下書庫
「先生」
ラウラが、書物に埋もれるウーヴェ老に声をかける。
王城の、一握りの者しか入れない地下書庫で、ウーヴェは机の上に書物を積み上げ調べものをしていた。
「あやつの様子はどうじゃ」
ウーヴェ老は開いた本から目を上げずにラウラに問う。
「落ち着いています。ツェアフェルト邸で初めて見た状態より、良いかと」
「連れてきて正解じゃったな」
「ええ、それにもう、大丈夫そうな気がしますわ」
「どういうことじゃ?」
ラウラはウーヴェの向かい側の席に座り、行儀悪く両肘を机につき両手の指を組むとそこに顎を乗せ、ふう、とため息をついた。
「子爵の魂は兄上が連れ戻しそうです」
「見つかったのか?」
ウーヴェ老が視線を上げた。
「まだ見つかっていませんけど、見つかると思います。兄上があの調子ではね」
ウーヴェ老が右の眉を上げて話の続きを促す。
ラウラはヒュベルトゥスがヴェルナーの魂が閉じ込められているらしい世界に入り込めたこと、ヴェルナーの魂の痕跡を追えていることを話した。
ウーヴェ老がガタリと立ち上がった。
「先生?」
「儂もそこに行く」
「無理だと思います」
「なんでじゃ」
「先生の求めているものが子爵ではなく、未知の世界だからですわ」
「そうか」
ウーヴェ老がすっと腰を下ろす。
ラウラが机に置かれた干し果物を摘まみ、ぽいと口に放り込んだ。
婚姻間近のラウラは、そのことを理由にあちこちと出入りしやすい。
王城を出ていく前に、義姉上にいろいろと話を伺いたいなどと言えば、毎日は無理でも今までより頻繁にお茶の時間も持てるし、人に聞かれるには微妙な話もありますわと笑って見せれば付きそう侍女も絞れる。
ヴェルナーが王太子宮に入って4日目の今日も、王太子妃の部屋でお茶をしてきたところだ。
王太子妃の侍女頭の淹れたお茶を飲みながら、ヒュベルトゥスから『夢の中のような世界』の話を聞いた時、ラウラは自分がそこへ赴きましょうかと提案した。
だが、ヒュベルトゥスは「婚姻前の娘が男に添い寝するのは拙かろう」と止めた。
ラウラは誰にも知られさえしなければ、何事も無かったも同然で、だからヴェルナーはここに居るのだし、マゼルだってそれでヴェルナーが助かるのであれば喜ぶだろう、と思ったが口に出すのはやめた。
「それに以前、ラウラがヴェルナー卿の居所を辿ろうとした時はできなかったのであろう?」
「それはそうですけど…」
糸口ができた今、試してみれば成功率は高い気がした。
ラウラはちらりと王太子夫妻の寝室へ続く小部屋の扉に目をやる。
自分と兄の違いは何だろうか。
ヒュベルトゥスは、ヴェルナーの『予言書』によって救われた内の一人だ。
ラウラは『予言書』のことは詳しく知らないが、あのスタンピードの時、ヴェルナー卿が居なければヒュベルトゥスが光の向こう側へ渡っていた可能性は高かった。
そして、もしそうなっていたとしたら、ヴェルナーは生き延びていたとしても、救国の英雄と称えられたほどの功績を成す機会が与えられたとは思えない。
二人の運命は奇妙に絡み合っている。どちらが欠けても成し遂げられなかったことが多いのだ。
兄上のヴェルナー卿への執着心はそこから生まれてきているのかしら。
正直、ラウラにヴェルナーの元へ向かうのを試させないのも、ラウラのことを思ってというより、ヴェルナーを自分以外の手に委ねることを厭うているように見えた。
ラウラが大きく息をついた。
「ため息が多いのう」
「深く考えない方がいい気がしてきました」
ヒュベルトゥスの語ったヴェルナーの居る世界というのが、魂だけが存在する世界ならば、きっと意志と自我の強い者ほど力を振るえるのではないか。
ならばヒュベルトゥスほどの適任者は居ないだろう。
ヴェルナー卿にとって、それが幸せなことかどうかは分からないけれど。
ラウラは立ち上がって地下書庫を後にした。
十一、五夜目
ヴェルナーと共に眠るようになって、五夜目。
夜半過ぎにヒュベルトゥスが夫婦の寝室に入ると、月明かりが窓から差し込み、寝台で眠るヴェルナーの顔を白く浮かび上がらせていた。
「ヴェルナー卿?」
ヒュベルトゥスは思わず声をかけた。
今まで、仰向けの姿勢のままぴくりとともせずに眠っていたヴェルナーが、横向きになっていたからだ。
目を覚ましそうな兆候は無いかとヴェルナーの前髪を撫で上げ、見つめるが特に変わった様子は見られなかった。
ヴェルナーは胸の前で右手を握りしめ、左手で右手を握り、少し丸まるような姿勢で眠っている。
寝台に滑り込んだヒュベルトゥスは、力を入れたまま眠っていては疲れるのではないかとヴェルナーの握りしめた手を開こうとしてみたが、思ったより強く握りしめられていた。
無理に解く必要も無いかと、ヒュベルトゥスはそっと横になる。
ヴェルナーの痕跡らしきものは見つけられたが、肝心のヴェルナーの元にたどり着けない。
ヴェルナーの魂は、あの世界のどこに居るのか、そもそもあの世界に「どこ」などという位置関係など存在するのだろうか?
知っているようでどこかが曖昧な世界。
魂で存在する、現実とは異なる時空。
「ヴェルナー」
苛立つ心を抑えるようにヴェルナーを後ろから抱きしめる。
「私の下に、帰ってこい。私を、求めろ」
気が付くと、王都の中央通りに立っていた。
まっすぐに伸びる石畳。その先に王都の城門が見える。
現実の中央通りより短く、城門は大きく見えた。
あの扉の向こうだ。
ヒュベルトゥスは確信を持って、歩き出す。
城門には黒い靄が纏わりついていた。ヴェルナーから滲み出ていたものと、同じ靄だ。
ヒュベルトゥスが城門の扉に手を伸ばすと、靄は避けるように渦巻くが、消えることは無かった。
大きく重そうな扉に手を押し付けると、ぐにゃりと厭らしい感触がして、手をついた箇所からぶわりと靄が膨らんだ。
なるほど、王族の気配だけでは退かないか。
つまりは、この世界の中心に近づいているということではないか?
ヴェルナーを囲い込む、この世界の。
ヒュベルトゥスの蒼氷の瞳に、苛烈な光が弾ける。
「退け!」
ヒュベルトゥスが怒鳴りつけると同時に、周りで光の粒が雷のようにバチバチと爆ぜ黒い靄が飛び散る。
金の髪と、濃紺のマントが巻き上がり、ふわりと落ちた。
ヒュベルトゥスが両の掌を扉に押し付けると、重く軋みを上げて、扉が開いた。
扉を越えると、またハレックと、鉄と、ガラスでできた世界に居た。
前に見た塔の街並みとは違う、薄汚れた路地裏のようだった。
その路地裏に、黒く蠢くものがあった。
ヒュベルトゥスは迷わず駆け寄る。
靄とは言えない、黒く蠢く液体のようなものが何かを覆っている。
ヒュベルトゥスはそこに両手を突っ込み、中に居るものを抱え上げた。
ヒュベルトゥスの怒りと共に、再び光の粒が爆ぜて、黒い液体が飛び散る。
ケソウ
ケソウ
コンナノイルノハ オカシイ……
微かに声のようなものが聞こえて、消えた。
「ヴェルナー!」
ヒュベルトゥスの腕の中に、ヴェルナーが居た。
薄黒く染まった姿で。
ヒュベルトゥスは寝台に眠るヴェルナーにしたのと同じように、払うように身体を撫でるが、靄と違って身体にしみ込んでいるようで薄くなることは無かった。
魔王の呪いが、ヴェルナーの魂を削り、侵したのだとヒュベルトゥスは感じ取った。
腹の底から沸き上がる怒りで、また光の粒が爆ぜる。
早くヴェルナーを手当てしなければと思うが、眩暈がするほどの怒りで身体が思うように動かない。
魂がむき出しのこの世界では、魂の持つ力が具現化されるが、制御もされないのだろう。
下手をするとヴェルナーを傷つけてしまうかもしれない。
ヴェルナーを見下ろすと、寝台に居る時と同じように掌をぎゅっと握り抱え込むようにしていた。
その手に触れるとゆるりと解けて、そこから金色の砂が零れ落ち、消えた。
それを見たヒュベルトゥスから急速に怒りが引いていく。
「良く頑張った、ヴェルナー」
ヒュベルトゥスはヴェルナーを抱きかかえ、立ち上がり、額に口づけた。
一二、むきだしの魂
失敗した。
ヒュベルトゥスは起き上がった。
傍らにはヴェルナーが居る。目を覚ましそうな気配は無い。
連れて帰ることはできなかったか…。
窓の外に見える空は青白い。
夜が明け始めている。再び眠るには半端な時間だ。
ヒュベルトゥスは横向きに身を丸めるようにして眠るヴェルナーを仰向けにし、長い髪を整えて邪魔にならぬように身体の脇に流してやる。手はもう、握りしめてはいなかった。
脇机の引き出しを開け、小さなナイフを取り出すと指先を突き、滲み出た血をヴェルナーの額に擦り付けた。
毎朝の儀式を終えたヒュベルトゥスは屈みこみ、ヴェルナーに口づける。
少し乾いた唇を舌でなぞり、今少し接触を深めたい気持ちを抑えて身を起こした。
ヒュベルトゥスは自室に戻り、呼び鈴を鳴らす。澄んだ高い音が響くと、侍女達が部屋に入ってくる。
軽い朝食を部屋で取り、侍女達に身なりを整えられた後、護衛騎士達が入室してきた。
「随分とご機嫌だな?」
「そうか?」
「にやけ面してるぞ」
メーリングの言葉に、ヒュベルトゥスは自室に持ち込んだ書類に落としていた視線を上げ、己の顔を撫でながらそんなことは無いだろうとファスビンダーを見やる。
「何か、良いことでもありましたか?」
ヒュベルトゥスは一瞬、正直に答えるかどうか迷ったが、隠すようなことでもないなとヴェルナーを見つけたことを話した。
「子爵、目を覚ましたのか」
「いや、まだだ」
ヒュベルトゥスは夢の中のような世界でヴェルナーを抱き上げた後、さてどうしたものかと考えた。
腕の中のヴェルナーは身体と同様、眠ったまま目を覚ます気配が無い。
ひとまず安全そうな場所へ…この世界で安全な場所があれば行きたいのだが、どこへ行けば良いか。
少なくともヒュベルトゥスは、このハレックと、鉄と、ガラスでできた世界には居たくなかった。
目を覚ましたヴェルナーに、己には馴染みの無いこの世界で違和感を持たずに懐かしむような素振りをされたくはない。
せめてあちら側に戻るか、と王都城門の扉の前に戻る。
こちらの世界と様式の違う城門だけが、唐突に聳え立っている。開け放ったはずの扉は再び閉まって、また黒い靄に覆われている。
ヒュベルトゥスは舌打ちをし、ヴェルナーを抱えなおすと勢いよく扉を蹴り飛ばした。
バチバチと光を弾かせながら、扉が開く。
城門をくぐるとそこは、王太子夫妻の寝室だった。
魂だけの世界とは便利なものだな、と思いながらヒュベルトゥスはヴェルナーを寝台に横たえる。
改めてみると何とも痛ましいありさまだった。
長く艶やかだった黒髪は、襟足で引きちぎられたように不揃いに短くなっている。
白いドレスシャツと、裾に小花模様の刺繍が入った群青色のキュロットは元の色が分からないほどに黒くまだらに染まっている。
ヴェルナー自身も薄めたインクに漬けられたかのような色に染まっている。
ヒュベルトゥスがヴェルナーを包んでいた黒いどろりとした液体のようなものを思い出し怒りに身を震わすと、身の回りで小さな光が弾けた。
「ヴェルナー」
ヒュベルトゥスが寝台に腰かけヴェルナーの頬を撫で、額の髪を撫で上げる。
「ヴェルナー、目を覚ましなさい」
ヴェルナーは反応を示さない。
ヒュベルトゥスは脇机に手を伸ばして、中からナイフを取り出すと、深めに親指を切りつけヴェルナーの口に含ませた。
何の変化も無いように思われたが、やがてヴェルナーはこくりと嚥下する様子を見せると、舌を動かし、ちゅっとわずかに音を立てて吸い付いつき、ヒュベルトゥスはぞわりと肌を泡立たせた。
腹の底から沸き上がる欲望に抗えない。
ヒュベルトゥスはヴェルナーの顔を両手で掴み、嚙みつくように口づける。
厚い舌で唇を割り、中に侵入し口内を蹂躙する。
血の味がする。魂を切りつけても、血が出るのか。それともイメージが血を感じさせているのか。
血の味がする口内を堪能していると、ヴェルナーがふっと苦しそうな息を漏れし呻いた。
「ヴェルナー!」
ヒュベルトゥスが声を上げて、ヴェルナーの上体を抱き起こした。
ヴェルナーの眉根がきゅっと寄り、うっすらと瞼が開く。
「ヴェルナー、私が分かるか?」
ヒュベルトゥスが優しく声をかけるが、ヴェルナーの視点が定まらない。眼球は黒く濁っている。
「誰ですか…?」
「目が、見えていないのか?」
「はい、あの黒くぼやけて良く見えないのです」
ヒュベルトゥスの周りでまたバチバチと光が音立てて弾け、ヴェルナーがびくりと身を揺らした。
「……すまない。目を開いていなさい」
ヒュベルトゥスはヴェルナーの顎に手を添え上向かせると、その両目に指先から滴る血を落とした。
ヴェルナーは目をぱちぱちと瞬き、ヒュベルトゥスの顔を見上げた。
「アポローン……?」
「誰だそれは」
ヒュベルトゥスの口から思いのほか低い声が漏れ、ひと際大きく光が爆ぜた。
「え、あ、太陽神です。元は芸術や光明、予言の神で…、あ、医術の神でもあったな…。貴方は、お医者様ですか?」
「……私が分からぬか?」
「すみません、存じ上げなくて…。貴方が助けてくださったんでしょうか?」
「自分の名は分かるか?」
「俺は―――」
咄嗟に、ヒュベルトゥスはヴェルナーの口を掌で塞ぐ。
「ヴェルナー」
驚いて目を見開くヴェルナーに、低く響く声で伝える。
「そなたの名は、ヴェルナー。ヴェルナー・ファン・ツェアフェルトだ」
ヒュベルトゥスが手を離すと、ヴェルナーは少し首を傾げる。
「知っているような、気がします」
「私の名は、ヒュベルトゥス」
「ヒュベルトゥス、さん?」
「覚えが無いか?」
ヴェルナーがじっとヒュベルトゥスの顔を見つめる。青みを帯びた黒い瞳からは濁りがすっかり消えていた。
「すみません、貴方のようなイケ…美男子、見たことあったら忘れないと思うんですが…」
ヒュベルトゥスはふっと笑う。
「そうだな、そなたは私の顔がお気に入りだったな」
「え?」
「そしてそなたは私のお気に入り、だ」
「え? えぇ?」
ヒュベルトゥスはくすくすと笑いを零しながら横抱きにしたヴェルナーを強く抱きしめた。
「あの、これは一体どんな状況なのでしょうか? ここは病院ですか? 貴方が助けて……」
ヴェルナーがびくりと身体を竦めた。
視線はヒュベルトゥスの後ろ、寝室の扉に向けられている。
ヒュベルトゥスが振り向くと、寝室の扉にじわりと黒い靄が纏わりついているのが見えた。
ヒュベルトゥスは寝台を降りると扉に向かい、勢い良く扉を開いた。
そこには、視界いっぱいに黒い靄とも液体ともつかぬものが蠢いていた。
ヴェルナーが息を飲む気配がする。
「虚無が…」
「失せろ!」
ヒュベルトゥスが怒鳴りつけると同時に光が爆ぜ、目の前に雷が落ちたかのような光と衝撃が走った。
ヴェルナーが虚無と呼ぶモノは、はじけ飛び、びしゃりと音を立てて扉の外に落ちる。
ヒュベルトゥスの手にはいつの間にか剣が握られており、それを勢いよく振るった。
剣に見えたそれは振るうと刀身よりも長く、しなるように光を放ち、虚無を打ち据えて散らす。
ヒュベルトゥスが腕を振るう度、光は鞭となって舞う。
「ははっ!」
ヒュベルトゥスの喉から、高揚した高笑いが漏れた。
思うさま虚無を打ち据え、目の前からその痕跡を消す。
「ろくな意思すら残っていない魔王の残滓ごときが、私の邪魔をするな」
凍り付くような低い声で告げると、ヒュベルトゥスは扉を閉じ、剣の刃に手を滑らせ切りつけ、その手を扉に叩きつけた。
扉には手の形と勢いよく叩きつけられて飛び散った血の跡が残された。
ヒュベルトゥスはそれを満足げに見やり、振り向くと呆気に取られた顔のヴェルナーが居た。
「すまない、驚かせたか」
「いえ…あの、凄いですね…」
「どうもこちらでは衝動を制御できないな…。理性の重要さを痛感している」
「はあ…」
ヒュベルトゥスは寝台に腰を下ろし、ヴェルナーを見つめる。
「ヴェルナー、今我々は魂だけでこの世界に存在している。早く身体に戻らねば命の危険がある。戻り方は分かるか?」
「いいえ、分かりません。というか、おっしゃってることの意味が良く…」
ヴェルナーがぼんやりと答える姿を見て、ヒュベルトゥスが眉根を寄せる。
この、自分が何者かを分かっていない、魂が削られ、魔王の呪いに染められた状態のヴェルナーを身体に戻しても問題ないのだろうか?
まずは身体に戻してからかとは思うが、この世界で失ったものを、身体に戻ってから取り戻すことはできるのだろうか?
「ヴェルナー」
呼びかけながら頬に触れる。
「もし今、私が消えても、必ずここに戻ってくる。それまでおとなしくここで休んでいることができるか?」
「はい、お待ちしております」
「ヴェルナー、私に触れられるのは……嫌ではないか?」
ヒュベルトゥスはヴェルナーの頬に触れた手をそのまま細い首筋まで這わせた。
「いえ? 嫌ではありません」
「そうか」
ヒュベルトゥスはヴェルナーを抱き寄せ、口づけた。
驚くヴェルナーに構わず抱きしめると、魂と身体のつながりを辿ろうとし……。
目を覚ますと自分だけが戻っていた。
上手くいけばヴェルナーも共に戻せるかと思ったのだが、そう上手くは行かないようだ。
自分で身体まで辿れないと無理なのだろうか。
それにはヴェルナーが元のヴェルナーに戻らないと難しそうだ。
あの状態のままで戻すことにも懸念がある。
やはり、ラウラに任せた方が良いだろうか。
ラウラをあの世界に赴かせ、浄化と魂寄せの祈りをさせるのが確実かもしれない。
「それで?目は覚ましそうなのか?」
メーリングの言葉で思考の底に沈んでいたヒュベルトゥスは我に返る。
「いや、すぐには難しそうだ。だが危険な状態ではなくなったはずだ」
「俺には状況が良く理解できんが、あまり無茶をするなよ」
「めずらしいことを言うな」
「子爵のための忠告だ」
「ご自身の身の安全も忘れないでくださいよ」
ファスビンダーが執務室に向かうためにヒュベルトゥスの部屋の外に出る扉を開ける。
ここから先は、三人とも公の顔になる。
王太子宮を抜け、王城の執務エリアの手前でラウラと行き会った。
「兄上、おはようございます」
「おはよう」
「もう政務のお時間ですか? 懸念の件は進展ありまして? 私がお手伝いできるようなことは、ありますかしら?」
ラウラが笑顔で、ひたと見つめてくる。
「……いや、それには及ばぬ。その時がくれば、声をかける」
そう答えて、ヒュベルトゥスはラウラの前から立ち去った。
十三、覇王
光と色彩が失われていた世界で、急激に光が明滅し派手に音を立てた。
自分を追い立てていた虚無が飛び散り、光の鞭に打ち据えられているのを青年は呆気に取られて見つめていた。
「ははっ!」という高笑いに続き、「ろくな意思すら残っていない魔王の残滓ごときが、私の邪魔をするな」と地の底から響くような声が聞こえた。
ヒュベルトゥスと名乗った、ギリシャ彫刻かと見紛う美丈夫は、思うさま虚無を蹂躙したと思えば、掌を切りつけ血飛沫を飛ばしながら扉に叩きつけ、満足げににっこりと笑い振り向いた。
「すまない、驚かせたか」
「いえ…あの、凄いですね…」
魔王とは、あの虚無のことなのだろうか。
どちらかと言えば。今目の前で微笑んでいる男の方が魔王と呼ぶべき存在のような気がする。
「どうもこちらでは衝動を制御できないな…。理性の重要さを痛感している」
「はあ…」
魔王というには禍々しさは無い。光の魔王?何だ光の魔王って。『魔』は要らないか。じゃあ『王』か? それにしては荒々しい覇気に満ちている。覇王か。
青年が頭の中でぐるぐると考えていると、ヒュベルトゥスはベッドに腰を下ろし、身を寄せてきた。
「ヴェルナー、今我々は魂だけでこの世界に存在している。早く身体に戻らねば命の危険がある。戻り方は分かるか?」
「いいえ、分かりません。というか、おっしゃってることの意味が良く…」
そうか、自分の名はヴェルナーというのだった。そう言われるまでは、何か別の名前だったような気がするが、この人が自分をヴェルナーと呼ぶのであれば、そうなのだろう。
ヴェルナーがぼんやりと答えると、ヒュベルトゥスが名を呼び、頬に触れてきた。
「もし今、私が消えても、必ずここに戻ってくる。それまでおとなしくここで休んでいることができるか?」
触れた手が熱い。さっき切りつけ、叩きつけた傷が熱を持っているのではないだろうか。
ヒュベルトゥスと名乗ったこの迫力ある美丈夫は、自分を助けるためにここに現れたのだろうか?
「はい、お待ちしております」
「ヴェルナー、私に触れられるのは……嫌ではないか?」
ヒュベルトゥスはヴェルナーの頬に触れた手をそのまま細い首筋まで這わせた。
「いえ? 嫌ではありません」
「そうか」
ヒュベルトゥスはヴェルナーを抱き寄せ、口づけた。
ヴェルナーが驚きに目を見張った瞬間、ヒュベルトゥスは目の前から消えた。
「え? え?」
ヴェルナーは指先で自分の唇に触れながら動揺の声を上げる。
触れるってそういうこと?
そういえば目を覚ました時もあの人に抱きかかえられていた。
親しい関係だったのだろうか?
何か…何か凄そうなあの人と自分が?
「魂だけでこの世界に存在している」とあの人は言っていた。
魔王がどうとか…。自分は何らかの理由で、魂だけになってしまったのだろうか? 戻らねば命の危険があるということは、生きて身体に戻ることが可能で、そのためにあの人は、この悪夢のような世界に来てくれたのだろうか。
あの光の砂が降るようになって、虚無から遠ざかった感じがしていたのに、あれは急にヴェルナーの元に現れて膨れ上がり、飲み込んだ。
ああもう、これで最後かと思っていた時にヒュベルトゥスは現れた。
あの人が現れたから、虚無は慌ててヴェルナーの元にきたのだろうか。
虚無がそうする理由も目的も、自分には分からないが。
ヴェルナーの口から、ふわっと欠伸が漏れた。
なんだかとても眠い。
ヴェルナーは、自分の中から恐れも不安も消え失せていることに気が付いた。
あの人が、必ず戻ってくると言ったのだから、待っていればいい。おとなしくここで休んでいろと言ったので眠っていよう。
ヴェルナーはベッドに横になる。
口の中が妙に甘いな。何か食べたっけ…?
ヴェルナーはすぐに、眠りに落ちた。
十四、魂の交合
この世界は常に薄暗く、昼か夜かも分からない。
寝室内の暗さに、灯をつけることはできるのか、とヒュベルトゥスが照明の魔術具に目を向けると、暖かな色の光が灯る。
便利なものだなと苦笑しながらヒュベルトゥスが寝台に近づくと、寝台に腰かけたヴェルナーの黒い瞳が、自分を見つめていた。
どこか冷めた顔つきで、思考に耽る、いつものヴェルナーのようだった。
「私を思い出したか?」
「いいえ、すみません…」
「何を考えていた?」
「貴方は、何者で、自分にとってどんな人で、自分は、貴方にとってどんな存在なのかなと」
ヒュベルトゥスはヴェルナーの正面に後一歩の距離を開けて立つ。
「……ヴェルナー、正直に言うが、私はもう我慢できない」
「俺が、何か良くないことをしましたか?」
「いや、そうではない」
ヒュベルトゥスは両手を差し出し、ヴェルナーの頬に触れるか触れないかの位置で止めた。
「触れても良いか?」
「え?」
「嫌であれば、私はここを去る。代わりに、妹のラウラをここへ来させる。ラウラは、聖女で、そなたを浄化し、身体に戻すことができるであろう」
「貴方にはできないのですか?」
「おそらく、できる。できるが、それはそなたの意に沿わない行為かもしれない。いや、他の方法もあるだろうが…」
「俺に触らないとできないことですか?」
「ヴェルナー」
蒼氷の瞳と漆黒の瞳が見つめあう。
「ヴェルナー、私が、そなたに触れることを我慢できないのだ。そなたが魔王の呪いに侵されていることにも我慢がならないし、それを力ずくで追い出し、代わりに私で満たしたいという欲望を、抑えられないのだ」
ヒュベルトゥスの指先がヴェルナーの顎を救い上げ、親指で唇を撫で上げた。
「え、あ、触れるって、やっぱり…」
ヴェルナーの頬と首筋が赤く染まり、体温がじわりと上がったのを指先が感じ取り、ヒュベルトゥスはぴくりと身じろぎをした。
「嫌か?」
湧きあがる衝動を抑えながら、確認する。
「わ…分かりません。嫌かと言われれば、嫌ではないんですが…」
ヴェルナーが、ヒュベルトゥスから目を逸らす。
「俺が、貴方に触れてもいいんでしょうか?いけないことのような、気がするのですが」
ヒュベルトゥスの視界が赤く染まる。
気が付けば、ヴェルナーを押し倒し、片手でヴェルナーの両手首を掴み頭の上に捩じ上げて自由を奪い、貪るように口づけをしていた。
苦し気に呻く声が情欲を煽る。
ヴェルナーの瞳から、黒く濁った涙が零れ落ちるのを舐めとり、再び口内を蹂躙しながら、もう片方の手でヴェルナーのドレスシャツとキュロットのボタンを外す。
「んんっ」
ヴェルナーがひときわ大きく呻く。
ヒュベルトゥスの大きな掌が、露わになったヴェルナーのものを包む。
ヴェルナーは、羞恥で身を捩るが、ヒュベルトゥスはヴェルナーの両手首を強く抑え込み逃げるのを許さない。
「あっ」
乱暴に、性急に扱われてヴェルナーのものが反応する。
「あ、あ…? そんな…」
ヒュベルトゥスに与えられる刺激に反応する自分に戸惑うようにヴェルナーは首を振る。
「ヴェルナー」
名を呼ぶときつく閉じていた目が開かれ、潤んだ瞳がヒュベルトゥスを見つめた。
手の中の昂りがぴくりと跳ねる。
快楽に戸惑う様をヒュベルトゥスに見据えられ、ヴェルナーはたちまち上り詰めそうになっている。
「あ、出る…手、離して…っ」
ヴェルナーはヒュベルトゥスの手を汚さぬために訴えたのだろうが、聞かずにそのまま手の動きを速める。
「あ、ああっ」
ヴェルナーはヒュベルトゥスと見つめあったまま精を放った。
「ヴェルナー」
ヒュベルトゥスは恍惚と欲に満ちた笑みを浮かべて、ヴェルナーをきつく抱きしめる。
自分の腕の中で、余韻に身を震わすヴェルナーが愛しくてならない。
ヴェルナーから放たれた精は、涙と同じように黒く濁っていたが、直に透明になり消えた。
ヒュベルトゥスはヴェルナーのキュロットと下着を一気に脱がすと膝立ちになり、自身の上着とシャツを脱ぎ捨てる。
半裸になったヒュベルトゥスを呆然とした顔でヴェルナーが見上げていたが、ヒュベルトゥスがズボンのボタンに手をかけ開け放つと、その顔をひきつらせた。
「怖いか?」
ヴェルナーに覆いかぶさりながら聞く。
「……はい」
ヒュベルトゥスはヴェルナーの頭の横に手を突き下半身を密着させる。
ヒュベルトゥスの猛りが、ヴェルナーに押し付けられて熱く脈打ち存在を示す。
「大丈夫だ。そなたが、私を受け入れる気があるならば、だが」
ヒュベルトゥスとて男を抱いたことは無い。詳しくは知らないが受け入れる身体ではないのだから、本来ならそれなりの準備が居るのだろう。
だが今は、生身の身体ではない。これから交わるのは魂なのだ。ヴェルナーに受け入れる気があれば、どうとでもなる気がした。
ヒュベルトゥスはヴェルナーの両足の間に割って入り、閉じられないよう己の膝で抑えた。
「え、あ…っ」
動揺して声を漏れすヴェルナーの口を己の口で塞ぎながら、手をヴェルナーのものに這わせる。
精を吐いたばかりでくったりとしていたものはヒュベルトゥスから与えられる刺激を素直に受け取って再び反応する。
ヒュベルトゥスはそのまま手を滑らし、己を受け入れる場所をまさぐった。
「んんーっ」
ヴェルナーは抗うように声を上げるが、構わず中指を押し込む。
わずかな抵抗があったが、あっけなく指は飲み込まれた。
指を動かすとヴェルナーの中はぬるりと湿って締め付けてくる。
指を一本増やして、中を確かめるように動かす。
「あっ…」
ヴェルナーから小さな愉悦の声が漏れて、ヒュベルトゥスのものがぴくりと跳ねる。
指を抜き、代わりに昂る己のものを押し当てた。
「え、そんな、無理…っ」
ヴェルナーは己に押し当てられた熱と質量から逃れようと身を引くが、ヒュベルトゥスはそれを許さない。
ヴェルナーの腰を掴みずるりと引き寄せる。
「我慢できないと、言ったであろう」
ヒュベルトゥスの獰猛な瞳に射すくめられて、ヴェルナーは動けない。
ヒュベルトゥスはヴェルナーの腰を掴んだまま、己の高ぶりを一息にヴェルナーに埋めた。
「ひっ…ああ!」
衝撃に耐えかねるようにヴェルナーが声を上げる。
「……っつ」
ヒュベルトゥスも己を包む感覚に溜まらず声を漏れす。
ヴェルナーの中が、熱くうねるように押し返してくる。自分と異なるものの侵入を反射的に拒んでいるようだった。
「ヴェルナーっ」
ヒュベルトゥスはヴェルナーの腰を掴んでいた手を背に回して強く抱きしめる。
「あっあ…。駄目、抜いて…っ」
「駄目だ、離さぬ」
混乱して視点の合わないヴェルナーを、それでもヒュベルトゥスは離さずに、より深く身を埋める。
「私を受け入れろ、ヴェルナー」
短くひきつるような呼吸を繰り返すヴェルナーの耳元で、何度も名を呼ばう。
目の端から零れ落ちる涙を舐めとる。
今少し優しくしてやりたいが、その余裕が無かった。
ヴェルナーの中を己のもので摺り上げ、かき回す。
うねる内部に誘われるように、あっという間にせりあがってくるものをヒュベルトゥスは抑えられない。
初めて知るヴェルナーの中をもっと堪能したいが、一度吐き出さねばどうにもならないほど昂っている。
ろくに呼吸もできないヴェルナーの背を更に強く抱きながら、ヒュベルトゥスは何度も叩きつけるように突き上げる。
ヒュベルトゥスの獣のような息遣いが、苦しさに仰け反るヴェルナーの首筋にかける。
「ひぅっ、あっ、あっ」
突き上げられる律動に合わせてヴェルナーの短い悲鳴が漏れる。
その悲鳴すら喰らい尽くそうとするように、ヒュベルトゥスは大きく口を開け、ヴェルナーの口に噛みつく。
「んんぅ……ううーっ!」
ヴェルナーが苦しみに悶えるほど、中が激しくうねる。
ヴェルナーの口内と下腹部を激しく蹂躙し、渦巻くような交合の波の中でヒュベルトゥスはヴェルナーの中に澱のように溜まり蠢く黒いものの気配を感じた。
ごくわずかに残っていたヒュベルトゥスの理性がはじけ飛んだ。
これは、私のものだ!
ヴェルナーの、より奥を求めてヒュベルトゥスは更に強く突き上げた。
越えてはいけない何かを貫いたような感覚がヒュベルトゥスの猛りを包み、夢中でそこを突き上げる
ヴェルナーの中でぱちぱちと何かが弾け、体中を巡っていく気配がした。
ヴェルナーはもはや声も上げられずにがくがくと揺さぶられている。
その様子にヒュベルトゥスは残酷な喜びを感じ、達した。
ひと際大きく、ヴェルナーの中が弾ける。
「っつぁ…」
ヒュベルトゥスは呻きながら精の迸りに合わせ、本能的に腰を押し付け、奥へ奥へと熱を注ぎ込んで果てた。
ぽたぽたと音を立てて、ヒュベルトゥスの身体から流れた汗がヴェルナーに降り注ぐ。
ヒュベルトゥスは脱力し、ヴェルナーの上に崩れ落ちそうになるのを何とか堪えた。
その時になってようやくヴェルナーの様子が目に入る。
我を失ったヒュベルトゥスに蹂躙されたヴェルナーは、視点の合わない潤んだ瞳を宙に向け、ひくっと短い呼吸を粗く繰り返していた
「ヴェルナー!」
ヒュベルトゥスは慌ててヴェルナーの後頭部と背に手を回し、呼吸をしやすいようにと少し持ち上げる。
「すまない、大丈夫か?」
ヴェルナーは浅い息を繰り返し、やがて大きく息を吸って、吐くと、潤んだ瞳でヒュベルトゥスを見て困ったように薄く笑う。
「大丈夫です。だから、落ち着いてください。俺は貴方を拒まないし、その、だから…そんな顔、しないでください」
ヒュベルトゥスはヴェルナーの様子を見て、自分がかなり情けない顔をしていたのではないかと、掌で己の顔を撫でた。
ヴェルナーがくすりと笑い、ヒュベルトゥスはほっとして、ヴェルナーの横にごろりと寝転び、ヴェルナーの頭をそっと抱き寄せた。
「すまぬ…」
「いえ、あの、俺も、慣れてなくて、何をどうしたらいいか分からなくて……え?」
ヒュベルトゥスのものがびくりと動き、質量を増しヴェルナーの足に当たった。
ヒュベルトゥスはぐいとヴェルナーを引き寄せ、己の上に横たわらせた。
「煽り上手は天性のものか?」
ヒュベルトゥスは右手をヴェルナーの尻に回し、先ほどまでヒュベルトゥスのものを飲み込んでいた場所に指を入れる。
「ひゃっ」
ヴェルナーの中が指の侵入を拒むように、きゅっと締まる。
「嫌か?」
「嫌じゃないんですが、あの…どうしたらいいのか…」
「私が、欲しいか?」
「あ…」
途端、ヴェルナーの中の締め付けが、入るのを拒むのではなく、中に吸い込むような蠢きに変わった。
「素直だな」
指を増やしてかき回すと、くちゅりと濡れた音を立てる、
受け入れるための変化に、ヒュベルトゥスのものが応じるように固くなる。
ヒュベルトゥスはわざと音を立てながら指をかき回し続ける。
ヴェルナーはヒュベルトゥスの胸に顔を伏せながら、ヒュベルトゥスの与える快楽に身を任せている。
「ヴェルナー、口づけを」
どうしたらいいのか分からないと言うなら、教えてやればいいだけのことだ。
ヒュベルトゥスは軽く口を開き、ヴェルナーの唇を待ち受ける。
ヴェルナーは後孔にヒュベルトゥスの指をくわえ込んだまま、身体を少し上にずりあげ、おずおずと口づけをしてきた。
誘うように舌先で唇を突くと、ヴェルナーも舌を出してきてヒュベルトゥスの舌にそっと絡めてくる。
ヒュベルトゥスはその舌をじゅっと吸い上げ荒々しく嬲るのと同時に、ヴェルナーの中に入れた指の動きも激しくする。
「んっ」
ヴェルナーの体温が上がり、力を失っていたものがもたげ始めた。
ヒュベルトゥスの舌も、指も、ヴェルナーと混ざりあって溶けていくような、痺れるような感覚があった。
肉の身体ではない、魂の交わりというのはこうゆうものなのだろうか。
ヒュベルトゥスは己とヴェルナーの境を確かめるように、ぐりっと強く指を動かした。
「ああ!」
ヴェルナーの腰が跳ねて、浮く。
ヒュベルトゥスはもう片方の手で、ヴェルナーのものを扱く。
前と後ろを責められ、舌を強く吸われたままで、ヴェルナーは切な気に悶える。
ヴェルナーの先端からぬるりとした液体が溢れ始め、擦り上げる手の動きを滑らかにする。
ヒュベルトゥスとヴェルナーが触れあう全ての場所がくちゅくちゅと音を立てていた。
「ヴェルナー、顔を見せてくれ」
言われるままに顔を上げたヴェルナーの瞳は涙で潤み、小さく開いたままの口からはヒュベルトゥスの指の動きにあわせて声が漏れてくる
その向こう側に、高く突き上げて揺れる腰が見えた。
ヴェルナーが、せりあがるものに耐えようとしている。
「堪えなくとも良い」
「あっ、あっ、やっ。まだ、終わりにしたくない」
甘えるようにねだる声がヒュベルトゥスのものを猛らせる。
このように、ヒュベルトゥスから与えられる全てのものをその身で受け入れるなど、本来のヴェルナーには無いことだった。
何を与えようとしても、困ったような顔をするのだから。
記憶をなくし、ヴェルナーとしての気質を失い、呪いにその身を侵されたから、本能的に己を救えるヒュベルトゥスを求めているのだろうか。
それとも、自分達を取り囲むあらゆる柵から解放されたら、生身の世界でもヴェルナーはこのようにヒュベルトゥスを受け入れるのだろうか。
受け入れてもいいのだと、思うだろうか。
無意味なことを考えているな、とヒュベルトゥスは自嘲する。
生身の世界で何の柵も無い状態になることなど無いのだから。
「これで終わるわけが無かろう」
ヒュベルトゥスがくっと腰を上げると昂った先端がヴェルナーの後孔とものの間を突いた。
「ひゃ…? あっ、ああっ」
予想外の刺激にあっさりと達して、ヴェルナーはヒュベルトゥスの腹に精を吐き出す。
そのままヒュベルトゥスの上にへたり込んで、不規則に迸るものにあわせて身を震わした。
己の胸に伏せる頭に口づける。
ヒュベルトゥスはヴェルナーの下からそっと自分の身体を抜き、昂るものをヴェルナーに埋めるために覆いかぶさった。
己の欲望と、ヴェルナーの身の内の澱を吐き出させるために。
十五、混ざる
この世に敵う者など居ない。
そういった風情の美丈夫が、しおらし気に「触れても良いか」などと聞いてくるので、これはちゃんと答えなければならないと思ったのに、何が彼をそうさせたのか分からないが、ヴェルナーは手ひどく蹂躙された。
ヒュベルトゥスから自分に向けられた情欲が分からないほど鈍くはないが、何故自分にそこまで激しい想いを向けているのかは良く分からない。
獰猛で美しい獣が覆いかぶさってきた時、ヴェルナーは喰われるのだと気が付いた。
飢えた肉食獣が獲物を捕らえようと物陰に隠れて、今にも飛び出さんとしているところにのこのこと現れて、一瞬の内に喉笛に喰らいつかれ引き倒された哀れな草食動物なのだと。
足を開かされ、いきなり貫かれた時、自分ではない異物が体内に侵入してきた衝撃が脳天まで響いた。
混ざりあうはずの無いものを無理やり混ぜ合わせようとしているような不快感に悲鳴を上げる。
抜いてくれと懇願しても聞いてもらえない。
ヒュベルトゥスが激しく突き上げる度に、下腹部だけでなく、身体の中全てが、脳にまでも手を突っ込まれ、激しくかき回されて渦巻くような感覚に襲われる。
口に喰らいつかれ、呼吸もできない。
やめてくれ、死んでしまう。
これ以上、入ってこないでくれ。
それなのに、耳元で熱い息と共に自分の名を繰り返し呼ばれ続け、ヴェルナーの身体が徐々に熱を帯びる。
ヴェルナー、ヴェルナー、ヴェルナー。
余裕の無いかすれた低い声に、背筋を撫で上げられるような快感が走る。
美しい獣が自分の肉を引き裂き夢中で喰らい続ける様子に何故か喜びに近い感情が生まれる。
その時更に強くヒュベルトゥスが突き上げてきた。
湧きあがり始めていた快感が一気に消えて、衝撃にヴェルナーは悲鳴を上げた。
駄目だ、そんなところ、入っていいわけが無い。
だがヒュベルトゥスの猛りはそこも貫いた。
もはや悲鳴も出ない。
口をパクパクさせながら、揺さぶられるだけになるヴェルナーを見て、ヒュベルトゥスは獰猛な笑みを浮かべている。
獲物の一番上手いところを、見つけたんだ。
血まみれで貪り食われる自分の姿が脳裏に浮かんで、ヴェルナーの中がうねった時、ヒュベルトゥスは達して、熱い精を迸らせた。
体中が、脳内が、ぐちゃぐちゃにかき回され蹂躙され、ヴェルナーは意識が飛んでいた。
ようやくまともに息がつけるようになると、狼狽えたような顔をしたヒュベルトゥスが覗き込んでいた。
散々、思うさま喰らいついておきながらそれは無いだろうという思いと、この人、こんな顔するのだなという思いでヴェルナーは少し笑った。
「大丈夫です。だから、落ち着いてください。俺は貴方を拒まないし、その、だから…そんな顔、しないでください」
何故かは分からないが、自分はこの人が理性を飛ばすほどに求められてている。
ここまでされてもヴェルナーにはその理由が分からないし、どう応じればいいのかも分からない。
「すまぬ…」
「いえ、あの、俺も、慣れてなくて、何をどうしたらいいか分からなくて……え?」
ヒュベルトゥスのものがびくりと動き、質量を増しヴェルナーの足に当たった。
また何か、ヒュベルトゥスを滾らせるようなことを言ってしまったらしい。
「煽り上手は天性のものか?」
ヒュベルトゥスは右手をヴェルナーの尻に回し、先ほどまでヒュベルトゥスのものを飲み込んでいた場所に指を入れる。
「ひゃっ」
またいきなり侵入されて、身体がこわばる。
「嫌か?」
「嫌じゃないんですが、あの…どうしたらいいのか…」
「私が、欲しいか?」
ヒュベルトゥスの蒼氷の瞳が情欲をみなぎらせて見つめてくる。
凄まじい色香と精悍な美しさに圧倒される。
この人が、俺を求めている。
「あ…」
途端に腹の底が疼き、ヴェルナーの中がヒュベルトゥスの指を吸い寄せるようにうねった。
「素直だな」
指でかき回されて、くちゅりと濡れた音を立てる、
自分の中で生まれた欲を見透かされてヴェルナーは赤面する。身体が熱い。
ヒュベルトゥスはわざと音を立てながら指をかき回し続ける。
自分のそこが、そんな風に音を立てるなんて。
ヴェルナーは羞恥に悶えながら、ヒュベルトゥスの胸に顔を伏せ快楽に身を任せる。
自分の薄い身体と違って逞しく、熱い。
身体を重ねているだけで気持ちがいい。
「ヴェルナー、口づけを」
ヒュベルトゥスの薄く開いた口が、煽情的で、ヴェルナーは言われるがままに身体をずり上げ口づける。
誘うように突いてきた舌先に自分の舌を絡めるとヒュベルトゥスはその舌をじゅっと吸い上げ荒々しく嬲り、同時にヴェルナーの中に入れた指の動きも激しくする。
「んっ」
ああ、今からまた、この人に貪られるのだ。
ヴェルナーの腹の底が熱くうねって、くたりとしていたものが熱を持ち、首をもたげ始める。
ヒュベルトゥスがヴェルナーの中で、ぐりっと強く指を動かした。
「ああ!」
ヴェルナーの腰が跳ねて、浮く。
ヒュベルトゥスはもう片方の手で、ヴェルナーのものを扱く。
前と後ろを責められ、舌を強く吸われたままで、ヴェルナーは切な気に悶える。
――あ、気持ちいい…。
ヴェルナーの先端からぬるりとした液体が溢れ始め、擦り上げる手の動きを滑らかにする。
ヒュベルトゥスとヴェルナーが触れあう全ての場所がくちゅくちゅと音を立てていた。
ヴェルナーの腰が甘く痺れて、ヒュベルトゥスが扱いてくる手に合わせて自ら動き出す。
ヒュベルトゥスがヴェルナーから口を離し、笑う。
「あ、あっ」
恥ずかしくて仕方が無いが、止まらない。
開放された口から嬌声が漏れる。
「あぅっ、んっ」
へなへなと力なくヴェルナーはヒュベルトゥスの首元に顔を埋め、両手で厚い胸に縋りつくように上体を伏せ、腰だけを高く上げた格好になる。
「ヴェルナー、顔を見せてくれ」
言われるままに顔を上げる。
滲んだ涙でヒュベルトゥスの顔が良く見えない。
だらしなく開いた口からは小さく嬌声が漏れ続け、自分はさぞかし情けないありさまに違いない。
そう思うとますます腰が揺れる。
腹の底からせりあがってくるものの気配に耐える。
「堪えなくとも良い」
「あっ、あっ、やっ。まだ、終わりにしたくない」
「これで終わるわけが無かろう」
ヒュベルトゥスがくっと腰を上げ昂った先端でヴェルナーの後孔とものの間を突いてきた。
「ひゃ…? あっ、ああっ」
予想外の刺激にあっさりと達して、ヒュベルトゥスの腹に精を吐き出す。
そのままヒュベルトゥスの上にへたり込んで、不規則に迸るものにあわせて身を震わした。
頭のてっぺんに口づけされた感触がした。それだけで痺れるような快感が走る。
ヒュベルトゥスはずるっとヴェルナーの下から身体を抜いて、その刺激にもぞくぞくと震える。
離れた肌が恋しくて、ヒュベルトゥスを目で追うと、ヒュベルトゥスはぺしゃりと情けなく潰れたヴェルナーの後ろに回り腰を両手で掴み持ち上げた。
「んっ」
後孔にヒュベルトゥスの猛りがあてがわれて、また一気に貫かれるのかと震えたが、予想外にそれはゆっくりと入ってきた。
力の入らない身体を伏せたまま、腰を持ち上げられ、後ろからずるり、ずるりと焦らすように抽送される。
繫がった部分が甘く熱く痺れていく。
ヒュベルトゥスが、ヴェルナーの腰から手を離す。
ヴェルナーはへたり込まないように、顔を寝台に押し付け、両手で顔の脇のシーツをぎゅっと摑みながら一生懸命に腰を突き上げた。
シーツを掴むヴェルナーの手の横にヒュベルトゥスが手を突き、ヴェルナーの中をじっくりと楽しむように動く。
くちゅり、くちゅりと卑猥な音が響く。
触れあっているのは、ヒュベルトゥスの猛りと、ヴェルナーの後孔だけだった。
そこだけが熱く、他の場所が冷たく寂しくて、ヴェルナーはヒュベルトゥスの肌に触れるように動こうとするが、触らせてもらえない。
ヒュベルトゥスはゆっくりと動き続ける。
長く焦らされて燻るような快楽に足が崩れそうになる。
「抜けてしまうぞ?」
ヴェルナーは腰を突き上げ、強い快楽を求めて身をうねらせる。
しかしヒュベルトゥスはヴェルナーが得ようとしている快楽を取り上げるかのように身を逸らしながら動く。
あまりの切なさに泣きそうになった時、ヒュベルトゥスは両手でヴェルナーのうなじを緩く包んだ。
散々焦らされたところに急に与えられた熱で、ヴェルナーの身体が跳ねる。
一瞬、首を絞められるのかと思ったが、ヒュベルトゥスの両手は首から離れ、両の指先だけでつぅっと背中から腰を撫でた。
「ああんっ」
喘ぎ声のお手本のような声を上げてしまい、羞恥と共にヴェルナーは軽く達する。
がくがくと身体が揺れ、落ちそうになる腰をヒュベルトゥスが摑む。
緩く立ち上がったヴェルナーのものから、ぽたぽたとしずくが垂れる。
「…っ」
ヴェルナーが達して蠢く内部にヒュベルトゥスが刺激され息を飲んだ気配がした。
ヒュベルトゥスはヴェルナーを貫いたまま、片手でまた背筋を撫でる。
「この背を流れる黒髪が無いのが、惜しいな」
自分が失った何かを惜しむ言葉に、ヴェルナーはぎゅっと心臓が締め付けられるような心地がした。
そのヴェルナーの感情に連動するように、中がぎゅっとヒュベルトゥスを締め上げた。
「つっ! ……ヴェルナー?」
ヴェルナーは寝台に顔を突っ伏した。
ヒュベルトゥスがどんな顔をしているのか、見るのが怖かったからだ。
自分ではない何かを懐かしむ顔をしていたらどうしよう。
「ヒュベルトゥス…様っ」
ヒュベルトゥスの身体がびくりと揺れた。
「もっと、激しく、してください…っ」
ヴェルナーの中でヒュベルトゥスの硬さと質量が増した。
ヒュベルトゥスが激しく腰を打ち付けてくる。
肉のぶつかる音と、ヴェルナーの喘ぎ声だけが寝室に響く。
そこからはもう、何度果てたのか分からない。
ヴェルナーの中も、脳までもぐちゃぐちゃにかき回され、我を失い、際限ない快楽に声を上げ精を吐き出し続け、ヒュベルトゥスの精を全て飲み込みどろどろに溶けてヴェルナーは意識を失った。
十六、芍薬
ぽたり、とペン先からインクが垂れて、手元の魔皮紙に黒い染みを作った。
ヒュベルトゥスが顔を上げると、執務室の扉前に立つ友人兼護衛騎士の二人が何とも渋い顔していた。
日中立て続けにあった会議の場ではいつもと変わらぬ仕事ができていたと思うが、執務室で友人と自分だけになって気が抜けてしまったらしい。
「随分とお疲れだな」
メーリングが後ろ手を組んだまま肩を竦めて見せた。
「殿下、本当にお身体に問題は無いのですか?」
ファスビンダーが険しい顔で訪ねてくる。
「身体は問題ないが、寝ている間に脳が活動しているようなものかもしれない。少々疲れてはいるな」
「お前、ほんとにアチラとやらで何やってんだ?」
二人には、あちらの世界で発現したらしい聖魔法でヴェルナーから徐々に呪いを取り除いている話はしていた。
詳しいやり方については口にしていないが。
「殿下、御身の安全が何より優先されるということは、お分かですよね?」
普段、何かあると茶々を入れてくるのは大抵メーリングなのだが、今回はファスビンダーの方がとやかく言ってくる。
メーリングは「説明されても何が何やら理解の範疇外だ。お前とヴェルナー卿に問題が無いから好きにすればいい」と呆れ顔をするだけだったが、真面目なファスビンダーはそうはいかないようだ。
「分かっている。あちらで一番力を持っているのは私だ。危険など無い」
ファスビンダーはまだ何か言いたげだったが、ヒュベルトゥスは視線を背けるように机の上の書類に向ける。
インクの染み近くに、とん、と指先を置いた。
ヴェルナーと初めて交わってから、更に二夜。
あちらに行く度に、獣のようにヴェルナーを貪る己が居た。
ヴェルナーをこちらに取り戻すための行為のだったはずなのに、際限なく喰らい尽くしてしまう。
乱暴に渦巻く交合に、ヴェルナーの悦びが滲んでいるのが分かり、この上ない快楽と征服感にヒュベルトゥスは浸った。
最初は肉の身に収まっていない魂の、むき出しの感情と力に恐れを抱いたというのに、思うさま力を振るい、感情のままに動くことに躊躇が無くなってしまった。
そういえば、こちらで聖魔法と思しき力は発動するのだろうか?
発動のさせ方が分からないが。
王族は聖魔法の資質を持つ者が多いので、過去には神官の教えを受けて聖魔法の訓練をすることもままあったらしい。
ヒュベルトゥスが生まれた頃には王族の数が少なく、将来王位を継承する可能性の高いヒュベルトゥスが教会側と繫がりが強くなることを避けて、聖魔法の訓練が行われることは無かった。
あちらで唐突に力が振るえるようになったが、制御はできていない。
魔術師や神官は杖などで力と指向性を制御しているようだがと思いながら魔皮紙についた指先に意識を向ける。
インクの染みを、ヴェルナーを侵すあの黒い残滓に見立て…。
バチンッ、と指先で光が弾けた。
友人二人と、ヒュベルトゥス自身も呆気に取られた顔をした。
まさかこんなに簡単に発動するとは思わなかったのだ。
「何だ今の? 聖魔法か?」
「と、思うが」
メーリングがつかつかと執務机に近寄り、ヒュベルトゥスの手元の魔皮紙を取り上げた。
「……焦げ付いてるぞ。こんな物騒な聖魔法見たこと無いが…って!」
メーリングの鼻先で小さな光の粒が弾けた。
「ふむ、コツを掴んだらしい」
「……ラウラ殿下に手ほどき頂いた方が良いのでは?」
「考えておこう…。今日はここまでにしておくか。」
いつもよりは早い日没間もない時間に執務を切り上げ、王太子宮に戻る途中、執務エリアから、王族のプライベートエリアに差し掛かる手前に人影があった。
「兄上」
ラウラと、ツェアフェルト侯爵インゴがこちらを見て、礼を取った。
「庭園の芍薬が盛りなのですけど、芍薬は夜になると花を閉じると聞いて、それを見に向かっていたら、ツェアフェルト侯爵と行き会いましたの」
お二人ともよろしければお付き合いくださいな、とにっこり笑ったラウラが手を差し伸べ、ヒュベルトゥスにエスコートを要求した。
ゼラニウムが枝垂れ咲く小道を抜けると、月明かりを浴びて一面に芍薬の花が咲いていた。
咲いていると言っても昼間に比べると緩く閉じている状態らしい。
「日の光の下で見るよりも、何か慎ましくも妖艶な美しさを感じますね」
護衛と侍女を排して、庭園の真ん中でヒュベルトゥスと、ラウラと、インゴの三人だけになったのを見計らって、ラウラがインゴと向きあった。
「インゴ卿、今朝方ヴェルナー卿の様子を見てきたのですけれど、呪いはほとんど解呪され、もう間もなく目を覚ますのではないかと思われますわ」
ヒュベルトゥスの腕に手を置いたラウラが見上げてくる。
「ねえ、兄上?」
ヒュベルトゥスは内心の苦々しさを押し殺して、インゴに笑顔を向けた。
「ああ、近く朗報をもたらせるであろう」
普段どちらかと言えば重々しい顔つきをしているインゴがわずかに目を見張り、自分を落ち着かせるようにぎゅっと目を閉じた。
「殿下方のご温情、誠に…」
頭を下げ、礼の口上を述べようとするインゴの腕にそっと触れて、ラウラが止める。
「礼には及びません。当然のことをしたまでですから」
ヒュベルトゥスも頷く。
「そうだな。ヴェルナー卿に全てを負わせてしまい、不甲斐ないばかりだ。斯様に魔王の呪いを一身に受けているこのことこそ、ヴェルナー卿が誰も及ばぬ救国の功労者であることの証左なのだから、王家が手を尽くすのは当然だ」
「ありがたきお言葉。感謝の念に堪えません。――妻も、安堵いたすことでしょう」
十年以上も前、ヴェルナーが幼い頃に馬車の事故で嫡子であった息子を失い、助かったヴェルナーもまた、スタンピード以降何度か死にかけている。
ツェアフェルト夫人は肝の据わった豪胆な女性だと聞いているが、母としての心中はいかばかりか。
ヒュベルトゥスはヴェルナーの寝室で見た、夫人の青白い顔を思い出した。
深く一礼して立ち去るインゴの背を見送る。
「マゼルも喜んでいましたわ。大切な親友の危機に何もできないでいることに落ち込んでいましたから。自分は何度も助けてもらったのに、と」
ラウラはヒュベルトゥスにエスコートさせたまま庭園をゆっくりと歩く。
「ルゲンツもエリッヒもフェリも、王都に留まったまま。ウーヴェ老が調べて何かが分かったら、手伝えることがあるかもしれないからと」
ヴェルナーを望んでいるのはヒュベルトゥスだけではないと思い知らせるために、ラウラはこの場を仕組んだのだろう。
「リリーもツェアブルクで、ヴェルナー卿の無事を信じて、己のやるべきことをしているでしょう」
ラウラが足を止めた。
足元から、ふわりと温かい風が吹き、ヒュベルトゥスとラウラの見事な金の髪が巻き上がる。
ヒュベルトゥスの身体を包むように、金の粒子が舞う。
「お付き合い頂いて、ありがとうございます。私は部屋に戻りますわ」
これが聖魔法のお手本だと言わんばかりにラウラはヒュベルトゥスに鎮静の魔法をかけて立ち去る。
月明かりに照らされた芍薬が風に揺れるのを眺めながら、ヒュベルトゥスは一人で立ち尽くしていた。
十七、寂寥
目を覚ますと一人だった。
どれくらい眠っていたのか分からない。
近頃は目を覚ますとヒュベルトゥスがいつも傍に居たのにと、しんと静まり返る寝室に一人で居ることに耐えがたい孤独を感じた。
ヴェルナーは仰向けに寝ていた身体をごろりと横寝の体勢にする。
いつも、ヒュベルトゥスに置いて行かれてしまう。
散々に交わりあったのに、今、傍らにあの方が居ないことが寂しい。
ヴェルナーは寒さに震えて、自分を抱きしめた。
あの方の傍に居たい。
あの逞しく熱い身体で抱きしめられると、何も怖いものなど無いような気がする。
あの猛々しい熱を、自分にぶつけて欲しい。
ヴェルナーはごくりと唾をのみ、そろそろと両手を己のものに添えていじり始める。
散々に精を吐いたはずのそこが容易に立ち上がる。
ヒュベルトゥスはヴェルナーが今、魂だけで存在していると言っていた。
ここに現れるあの方自身も。
肉体ではなく、魂、精神のみで存在するなら、欲望が満たされるまで際限なく快楽も絶頂も続けられるのかもしれない。
ヴェルナーは自ら与えた刺激に喘ぎながら考える。
足りない、全然足りない。
あの方が、自分に中に入り、かき回し、どろどろに溶けて、熱を放つ、あの快楽には、全然及ばない。
先端からぬめりが漏れる。ちゅくちゅくと音を立てながら、夢中で扱く。
あの方は「ヒュベルと、呼んでくれ」と言っていた。
そんな風に呼んではいけない人な気がして、ヴェルナーが戸惑っていると、ヴェルナーがいけそうでいけないぎりぎりの律動で焦らした
ヴェルナーが息も絶え絶えに「ヒュベル様」と口にするとヒュベルトゥスがどれだけ激しく責め立ててきたか。
それを思い出して後孔が疼いてひくつく。
快楽に捩る身に合わせて、長い髪が寝台に広がる。
「ヒュベル様…ヒュベル様っ」
ヴェルナーは身を震わせて、白濁した精をシーツに散らした。
十八、最後の夢
窓から月明かりが差し込んでいた。
いつの間にかこの世界は色を光と取り戻し始め現実の風景と近しくなっていた。
ヴェルナーが実際の寝室の様子をその目で見ているはずが無いので、おそらく己が見たものの影響の方が大きいのだろうとヒュベルトゥスは思った。
いつの間にかこの世界の主は己自身になっていたのかもしれない。
窓の外を、黒い靄が揺蕩っているのが見えた。
もはや何の力も感じない。もう直に、消えて無くなるだけの残滓。
未練がましいことだな。
ヒュベルトゥスは自嘲の笑みを口の端に浮かべる。
それは己も同じことか。
名を呼ばれた気がして、寝台に目を向ける。
ヴェルナーが夜具もかけずに背を向け丸まった体勢で寝ている。
ヴェルナーの後ろ髪が、肩甲骨の下辺りまで伸びていることに気が付いて、足を止めた。
その髪がヴェルナーの動きに合わせてうねる。
ふるふると身体を震わせたので、夜着だけでは寒かろうと思いながら近づくと、ヴェルナーがヒュベルの名を呼びながら果てたところだった。
ヒュベルトゥスは眩暈でよろけそうになるのをぐっと耐え、深く息を吐いてからヴェルナーに声をかけた。
「ヴェルナー」
ヴェルナーはびくりと身を竦め、恐る恐るといった体でヒュベルトゥスを振り返った。
その顔は真っ赤に染まり、瞳が潤んで唇はわなわなと震えている。
「あ、あの、違うんです」
「何が違うのだ?」
楽し気に笑いながら、ヒュベルトゥスは夜着をするりと脱ぎ捨てる。
ヴェルナーはヒュベルトゥスの裸体から目が離せないまま、慌てていた。
ヒュベルトゥスは身を起こしたヴェルナーの後ろに回り込こむと横抱きに膝の上に抱き上げた。
右腕でヴェルナーの肩を抱き、左手で果てたばかりのくったりとしたものに、愛おし気に触れる。
「私では物足りなかったのか?」
ヴェルナーの顔を至近で覗き込みながら訪ねる。
「ちっ…違うんです! ……目が覚めても、貴方が居なくて、だから…」
「だから?」
「……っ」
「私の手と、自分の手と、どちらが良かった?」
ヒュベルトゥスから与えられる刺激と羞恥に身を震わしながらヴェルナーが答える。
「ヒュベル様が、いい」
ヴェルナーの尻を乗せたヒュベルトゥスのものがどくりと脈打って、熱を増す。
「『こちら』と手ならどちらがいい?」
「両方、ください」
「我が儘になったものだ」
「そうさせたのは貴方では?」
ヴェルナーがどうやら少し不貞腐れているらしいと気づいたヒュベルトゥスはくすくすと笑う。
「そうだな。だから全て与えよう」
ヒュベルトゥスは上体を少し反らし、両手を後ろについて、挑発的な笑みをヴェルナーに向ける。
「望みのものを得るがいい」
ヒュベルトゥスの意を察したヴェルナーが顔から首筋まで真っ赤にして、恨めし気に見上げてくる。
それでもそろそろとヒュベルトゥスの膝から降りて、意を決したように膝立ちにヒュベルトゥスを跨ぐ。
ヒュベルトゥスは重ねた枕の上に身体を倒し、ヴェルナーを鑑賞しやすい体勢に寝そべると、自らの手でヒュベルトゥスの猛りを体内に納めようとする様を眺めた。
息を詰め、きゅっと唇を引き締めながら、先端を後孔にあてがう。
弾力があり、一番大きいところを飲み込むとそっと息をついてずるずると腰を下ろした。
「んっ」
圧迫感に耐え、少し背を逸らしながら全てを収める。
ふるりと身体が震え、ヒュベルトゥスのものに比べたらつつましい昂りの先端から透明な体液がこぽりと溢れた。
「は…ぁ」
入れただけで軽く達してしまったのかもしれない。
満ち足りた顔でヴェルナーはヒュベルトゥスを見下ろした。
「ヴェルナー、窓の外を見てみろ」
睦言とは違う言葉を口にしたヒュベルトゥスに不思議な顔をしながらヴェルナーは窓に顔を向け、身体を固くした。
ヒュベルトゥスのものを、ヴェルナーの中が縋るように締め上げる。
「っつ……。大丈夫だ。あやつはもはや何の力も持たぬ、直に消え失せるだけのものだ」
窓の外で霞のような呪いの残滓が揺蕩っていた。
「不相応にも、私からそなたを奪おうとしたものに、見せつけてやれ。己が誰のものなのかを」
ヒュベルトゥスの腰が挑発的に動く。
「さあ? 望むようにせよ」
「あ…っ」
ヴェルナーの中がうねり、そろそろと腰を動かし始める。
拙い動きに徐々に熱が加わる。
身を捩り腰を揺らすヴェルナーが、よりどころを求めるように両手を差し出し、ヒュベルトゥスはそこに両の掌を合わせて指を組む。
支えを得たヴェルナーが、更に激しく動く。
腰を前後に揺らし、ヒュベルトゥスの猛りで中をかき回す。
「あっあっ…」
短い嬌声を上げながら、思うさま快楽を拾い上げ堪能している。
背を反らせ、顎を上げ、身を捩る。
いつの間にか腰まで伸びた髪が、ヴェルナーの背で大きく揺れる。
月明かりが照らすヴェルナーの淫らなうねりを、情欲に満ちた蒼氷の目で見つめ、まるで風に揺れる芍薬のようだとヒュベルトゥスは思う。
ヴェルナーは何も言わず、夢中で上り詰めていく。つなげた手にぎゅっと力がこもる。
ヒュベルトゥスは身動きせずに、その様を見つめ続ける。
「――― っああ」
弾けるような声を上げ、大きく身を反らし、髪を躍らせ、ヴェルナーが達した。
ヴェルナーの放った精がぱたぱたとヒュベルトゥスの腹に落ち、一拍遅れてヴェルナーが崩れ落ちる。
己の胸の上で浅く荒い息を繰り返すヴェルナーを両腕で抱きしめる。
「んっ…」
ヴェルナーの腹がびくびくと震え、力を失った先端からわずかばかり精が溢れた感触がした。
ヴェルナーの息が整うまでヒュベルトゥスはじっとしていた。
肌と肌が、ヴェルナーの中で猛ったままのものが、溶けて混ざりあうような心地がした。
このまま眠ってしまえば、殻を持たない魂は溶けて一つに混ざってしまうかもしれないな。
その想像は甘美なものだが、己がけしてそれを選択することは無いと、ヒュベルトゥスは分かっていた。
繫がりを保ったまま身を起こし、ヴェルナーをそっと仰向けに押し倒すと、まだ快楽の余韻に浸るヴェルナーの中で緩やかに動き出す。
まだ咲き切らない花弁を一枚一枚優しく開くように、ヒュベルトゥスはヴェルナーの中をじっくりと開いていった。
今までほど激しくはないが熱く濃厚な交合を繰り返し、ヴェルナーは満足げにヒュベルトゥスの胸の上でうとうととしている。
髪も目も肌の色も元に戻り、魂の内にも呪いの残滓を感じないまでになったが、ヴェルナーの記憶はまだ戻らない。
身体に戻れば、記憶も戻るのだろうか。
いよいよラウラの手を借りねばならないか。
ヒュベルトゥスはヴェルナーごと身を起こす。
ヴェルナーはヒュベルトゥスの逞しい太ももに乗ったまま、少し身を離した。
「また、俺は置いて行かれるのでしょうか」
漆黒の瞳が、ヒュベルトゥスを見つめる。
ヒュベルトゥスは両腕でヴェルナーを抱きしめ、乱れた長く艶やかな髪を手櫛で梳く。
「もうすっかり元の長さだな」
生え際に両手の指先をあて、髪をかき上げるように梳くと、ヴェルナーは気持ちよさそうな顔をして、瞳を閉じる。
唇に軽い口づけを落としながら、ヒュベルトゥスはヴェルナーの髪を掌の上に載せ、するすると滑らす。
髪留めがあれば良かったが。
そう思った時、掌に髪とは違う重さが乗った。
ヴェルナーの、銀の髪留めだった。
ヒュベルトゥスは片手に乗せたまま髪留めを開くと、ヴェルナーの髪を束ねてパチリと留めた。
その瞬間、ヴェルナーの身体がびくりと跳ねた。
ばっとヒュベルトゥスから上体を離すと、呆然とした顔でヒュベルトゥスを見る。
「―――殿下…?」
ヒュベルトゥスの呼吸が止まる。
「ヴェル……」
ヴェルナーの肩に置いたヒュベルトゥスの手が、ぱたりと落ちた。
名を呼ぶ間もなく、ヴェルナーの姿が消えた。
十九、目覚め
目を覚ましたヴェルナーは、傍らに夜着のヒュベルトゥスが居るの見て、目を見開き、勢い良く身を起こしたものの貧血を起こし、そのまま寝台へ逆戻りしそうになった。
ヒュベルトゥスは素早くその背に腕を回して支える。
「落ち着きなさい。卿は九日も寝たきりだったのだぞ。すぐに動けるわけが無い」
「九日…?」
ヴェルナーは辺りを見回し蒼白になったかと思うと、両手をぐっと寝台につき身体をずらしヒュベルトゥスから距離を取り、がばと頭を下げた。
「恐れながら、全く状況がつかめないのですが、臣は何か多大なご迷惑をおかけしたのではありませんか?」
「頭を上げなさい。何も迷惑などかかっておらぬ。横にならねば説明せぬぞ」
あえて厳しい顔で告げると、ヴェルナーは一度ぐっと目を閉じ、落ち着か無気なげにそろそろと横になった。
ヒュベルトゥスは横になったヴェルナーの脇で片膝を立て、そこに頬杖を突きながら、不安げに自分を見るヴェルナーの顔を見つめた。
「卿がツェアブルクに向かう途中で倒れたのは覚えているか?」
「倒れた…? あ、はい、王都を出る辺りから記憶が曖昧ですが…、何か靄のようなものに纏わりつかれたような覚えがあります。あれは、呪いだったのでしょうか?」
「魔王の呪いだったようだ」
「魔王の⁉ しかし魔王は…」
「滅びたな。だがそのような状況を生み出した原因である卿を強く恨んでいたようだ」
「私を…? 魔王を倒したのはマゼルですが…」
なんで自分が、という顔をするヴェルナーに苦笑が漏れる。
「『魔王が長い年月をかけてきた全てを台無しにした。儂が魔王の立場なら、誰よりもこやつを恨むぞ』とウーヴェ老は言っていたな。私も同感だ。……申し訳ないことをした。そなたに全てを背負わせてしまった」
「いえ! そのようなことは…」
ヒュベルトゥスはヴェルナーがツェアフェルト邸へ連れ戻されてから起きたことを順に説明していった。
友人達にした説明と同じように、あちらでの行為のほとんどを秘密にして。
ヴェルナーは途中から両手で顔を覆い、「うう…」と小さく呻きながら聞いていたが、途中からふつりと無反応になった。
「ヴェルナー卿?」
「一子爵には誠に身に余るご温情を賜りました。……王太子殿下の尊き御身をそのような危険にさらさせてしまうとは」
ヴェルナーは顔を覆っている掌をぎゅっと握りしめた。
「インゴ卿にも申したが、魔王の呪いを一身に受けたこのことこそ、卿が誰も及ばぬ救国の功労者であることの証左なのだから、王家が手を尽くすのは当然だ。そのように恐縮することは無い」
ヒュベルトゥスがヴェルナーの固く握られた手に触れる。
びくりとヴェルナーの身体が揺れた。
「私とて、そなたを失うのは耐えられぬ」
ヒュベルトゥスが優しくヴェルナーの手をどける。
漆黒の瞳が、ヒュベルトゥスを見上げた。
「あちらでのことを……覚えているか?」
「……いいえ、誠に情けなきことながら…。悪夢を見ていたような…ずっと何かに追われていたような気はするのですが」
「そうか…」
ヒュベルトゥスは窓の外に視線を向けた。
空が白み始めている。
ヒュベルトゥスは脇机に置かれた呼び鈴を手に取り、鳴らした。
二十一、偽りと拒絶
ヴェルナーはすぐにでも王太子宮を辞してツェアブルクへ向かいたいと申し出たのだが、妙に迫力のある王太子妃の侍女頭に「なりません」とすげなく断られた。
ヒュベルトゥスが呼び鈴を鳴らすとすぐに表れた侍女頭はヴェルナーの身体のあちこちに触れ、軽く動かしながら体調について一通り聞いてきた。
「一見大丈夫なようでも、十日近く寝たきりで食事も取っていません。この状態で何日も馬車に乗るなど、また倒れるだけです」
ヴェルナーが思わずヒュベルトゥスの顔をちらりと見やると、この宮で一番尊いはずの方はひょいと肩を竦めてヴェルナーに言った。
「この宮の裏方で一番権力を持っているのは彼女でな。その理由を知りたいか?」
「いいえ、結構です」
ヴェルナーは心の中で激しく首を振りながら答えた。
目を覚ましたらそこは王太子夫妻の寝室でした、という不敬も極まる状況にヴェルナーは冷や汗が止まらない。
「妃殿下に対し奉り誠に無礼な状況では…」
鳩尾辺りをぐっと抑えながらぼそぼそとヴェルナーが呟く。
「妃は王太子宮にはおらぬ」
「は?」
「知ったとて何とも思わないだろう」
「いえ、面白がって何をするか分かりませんから、しばらくは知られない方がよろしいかと」
「詳しく知りたいか?」
「……いえ。……結構です…」
余計なことを言うと、知らない方が良い情報を知る羽目になるとヴェルナーは口を閉ざした。
とは言え、ツェアブルクで休養のために領都邸に閉じこもっている、という言い訳にも限度がある。
やはり早く出立したいと食い下がると、侍女頭がため息をつきながら妥協案を提示する。
「ではこの後、ご朝食を取って頂きます。本日三食召し上がって、それで体調が崩れないようでしたら、明日出立なさいませ」
長い間食事を取らなかった者が食事を取ると、それだけで体調を崩す場合がある。満足に食べることもできない者を旅立たせるわけにはいかないと言うことだった。
「承知いたしました…」
「では、明日まではこちらでゆっくり休みなさい。午後にはラウラも様子を見に来るであろう」
ヒュベルトゥスが寝室を出ていくとすぐに朝食の仕度がされた。
寝台の上で食べられるように、盆の上にミルクでとろとろに煮込まれたパン粥と、はちみつ、白湯が置かれたものが差し出された。
恐る恐る口にすると優しい甘さの中に、ほんのり生姜の風味があった。
胃の中にじんわりと温かさが広がる。
「吐き気などはしませんか?」
「大丈夫です」
「朝食後は、また少しお休みください。昼食のお時間になりましたら起こしますから。昼食後は、起きて少し室内で歩いてみましょう。午後のお茶の時間には、ラウラ殿下がお見えになる予定です。夕食は少ししっかりしたものを食べて頂いて、その後湯浴みとなります」
「そこまでして頂いては…」
「食事も湯浴みも、長く臥せっていた方にはかなりの負担がかかるものです。それをこなせないなら、明日の出立は無理ですよ」
全ては出立できるかの試験らしい。ヴェルナーは分かりましたと頷く他無い。
それにしても、この部屋で、王太子夫妻の寝室、その寝台で、休もうにも休まるわけが無い、と光を失った目で部屋を見渡す。
「強引に連れてきたのは王太子殿下ですから、子爵が気兼ねなさることはございません」
「そうですね…」
ヴェルナーはしおしおとしながらパン粥を完食した。
王太子妃の侍女頭の告げた予定をヴェルナーは必死にこなした。
侍女頭の言う通り、九日も寝たきりだった身体にはなかなか堪えたができるだけ早くこの場を去りたいヴェルナーは頑張った。
何とか夕食と湯浴みも済ませ、ごゆっくりお休みくださいと侍女頭が去り、ようやく一人きりになって一息ついた。
「さすがに、見晴らしがいいな…」
寝室の窓から、月明かりに照らされる白亜の宮殿と城下町が見渡せる。
バルコニーに出ることはできないが、窓からでも十分美しい風景が見られた。
おそらく下からはこの部屋が見えないように、上手く設計されている。
ヴェルナーは城下町の灯を見ながら、両親にも、マゼルにもルゲンツ達にも心配をかけてしまったな、と申し訳なく思った。
今朝の内に、自分の目覚めの報は伝わっているだろうが。
ツェアブルクに居ることになっているので、出立ついでに挨拶に寄るわけにもいかない。
王都に戻ってきたら、マゼル達には美味い飯と酒を奢らないとな。
リリーには……。リリーは、自分を信じて待っているだろう。自分がやるべきことを、一生懸命にこなしながら。
早く無事な姿を見せてやらないと…。
窓枠に手を突き、ぼんやりと外を眺めながらため息をついた時、かちゃり、と扉の開く音がした。
ヴェルナーはびくりと身体を揺らす。
窓枠についた手が震えている。
部屋の主が静かに近づいてくる気配がするが、振り返ることができない。
「ヴェルナー」
低く静かな声で名を呼ばれた。
窓枠についた手に、固く大きな手が重なる。
「噓をついたな、ヴェルナー」
耳元でささやかれ、ヒュベルトゥスに囲い込まれたヴェルナーの身体が固まる。
「……何のことでしょうか」
「私に噓を重ねるつもりか?」
ヴェルナーはぐっと歯を締め俯く。
「……お許しください…」
ヒュベルトゥスがヴェルナーの耳に頬を摺り寄せる。
夜着越しに逞しい身体と熱が伝わる。
「無かったことにするつもりか?」
「あれほどの恩情を賜ったことが、身に過ぎたことだと…」
「恩情?」
「あちらでは、殿下も私も常ではいられなかった。そうではないですか?」
「無体を強いたとは思う。だが、あれこそが何にも捕らわれぬ心からの望みだった、違うか?」
「分かりません……。人はどれほど自由に見えても、何の柵も無い状態で生きていくことなど、できないのですから」
「では、そなたをまたあの世界に閉じ込めてしまおうか。
今ならそれができる気がするぞ?」
「お戯れを……」
「戯れではない」
ヒュベルトゥスはヴェルナーを後ろから抱きすくめた。
「愛している、ヴェルナー」
ヴェルナーの心臓がドクンと跳ね、足が震える。
「お、れは、リリーを愛しています」
「構わぬ」
ヒュベルトゥスの腕の力が強まる。
「リリーを愛しんでやるがいい。子もたくさんもうけて、幸せな家庭を築くがいい」
ヒュベルトゥスの秀麗な鼻梁が、ヴェルナーの耳をくすぐる。
「だがそなたは、私のものだ」
ヴェルナーは大きく身震いをした。
「……リリーを裏切ることはできない…っ」
身を捩り、ヴェルナーはヒュベルトゥスと向かい合うと、両手で厚い胸板を押しやった。
「殿下のお心に添えぬこと…お許しください」
ヴェルナーは俯き唇を噛み締め、目を固く閉じたまま動かない。
「そうか…」
するりとヴェルナーの腕を撫でて、ヒュベルトゥスが離れた。
「あちらでのことも、ここでのことも、全て忘れることを許す。何も無かったのだと、全て忘れて…ツェアフェルトに帰りなさい」
一瞬、切な気に蒼氷の瞳を細めて、ヒュベルトゥスはヴェルナーから目を逸らし、背を向けヴェルナーの傍から離れ自室へと歩き始めた。
その背を、ヴェルナーが見つめる。
ヒュベルトゥスの姿がぼやけて、ヴェルナーの口からうめき声が漏れた。
「うぅ…っ」
ヒュベルトゥスが驚いて振り返ると、両手で自分の口を押さえたヴェルナーが、目を見開き大粒の涙をぼろぼろと零していた。
あまりに急激に大量の涙が溢れてきたせいで、目頭に痛みが走る。
「――うう~~っ」
両手で強く押さえても、抑えきれない声がヴェルナーの口から漏れる。
「うう、う…っう」
しまいにはしゃくりあげるような声になったが、ヴェルナーは口を押さえ、目を見開き、涙をぼたぼたと零したまま、動くことができない。
「ヴェルナー⁉」
ヒュベルトゥスがヴェルナーに駆け寄り、抱きしめるが、ヒュベルトゥスの胸に抱かれてなお、涙もしゃくりあげも止まらない。
「ううっ、うぅ」
ヴェルナーの顔を抱え込んだヒュベルトゥスの胸元がたちまち涙でぐっしょりとなった。
「どうしたのだヴェルナー?」
ヒュベルトゥスが狼狽えたように背を撫でる。
ヒュベルトゥスの腕が自分の腕から離れ、背を向けた時、ヴェルナーの心は耐えがたい喪失感に襲われ、物理的にも胸が締め付けられるような痛みが走った。
その衝動が一体何なのか、ヴェルナーは言語化できない。
ただ涙が溢れ、声を抑えられなかった。
「でっ…でで、殿っかっがっ」
ヒュベルトゥスは思わずといった風に笑った。
「でぅ? でっでっ?」
ヴェルナーから抗議するかのようなしゃくりあげが漏れる。
「すまぬすまぬ。もう笑わぬ」
「ひゃぅ?」
ヴェルナーはいきなり横抱きに抱き上げられた。
そのまま寝台に運ばれ、横たえられた。
ヴェルナーがわずかに身を固くしたのに気づいたように、ヒュベルトゥスは優しく笑う。
「何もせぬ。何もせぬし、何も答えなくていい。ただ今宵は共に眠ることを、許してくれぬか?」
ヴェルナーは一瞬迷い、頷く。
あれほどの衝動が、ヒュベルトゥスに触れられて治まる。
口であんなことを言っておきながら、そしてそれは本心からのものだったのに、どうしてこんな状態になってしまうのか、ヴェルナーは混乱した。
ヴェルナーに夜具をかけながらヒュベルトゥスが横に滑り込む。
「落ち着いたようだな」
笑いを含んだ声にヴェルナーの顔が熱くなる。
腫れて熱を持った瞼に、口づけが落ちてきた。
「情けない限りです」
ヒュベルトゥスはヴェルナーの頭を抱え込むように横になった。
ヒュベルトゥスに抱きしめられていると、あちらの世界のことが思い出されヴェルナーは落ち着かない。
もぞもぞと動くと、ヒュベルトゥスの緩く立ち上がっているものに触れてしまった。
何もしないといったのに、と思うがヴェルナー自身も反応を示している。
ヒュベルトゥスがぐっと身を寄せてきた。
昂りが触れあうが、ヒュベルトゥスは宣言した通りそれ以上のことはしてこなかった。
魂の交合の記憶と感覚が渦巻いて交わりたくて仕方が無い。
それでも二人は抱きあうだけだった。
とても眠れる状態じゃない、とヴェルナーは思っていたが、ヒュベルトゥスの温かい身体に包まれているうちにうとうとしだして、やがて眠りについた。
夢を見ることも無くぐっすりと。
二十二、
「子爵が出立したぞ」
「そうか」
ヒュベルトゥスは手元の書類を手早く捌いていく。
「手放さないんじゃないかと思ったが」
「そんなことはせぬ」
夕刻、王城の人の出入りが多い時間帯に、ヴェルナーは裏門から密やかに出立した。
そのまままっすぐにツェアブルクに向かう予定だ。
「しばらく子爵はツェアフェルト領ですか。少し寂しいですね。」
「私の元に戻りさえすれば、どこで何をしていようと構わぬさ」
ヒュベルトゥスはふっと笑みを浮かべる。
ツェアブルクでリリーに再会して、ヴェルナーはどのような反応をするだろうか。
王都から離れた土地で、この九日間のことをどう思い返すだろうか。
ヒュベルトゥスとヴェルナーは魂を混ぜあった。
何をどうしても分かつことができない繫がりがある。
そのことを、昨夜ヒュベルトゥスは確信した。
必ずヴェルナーは自分の元に帰ってくる。
その後、二人の関係がどうなるのかは分からないが。
何も無かったかのように今まで通りの主従になるのか。
罪悪と背徳の美酒に酔いしれ交わる仲になるのか。
どうなるかは分からないが、どうでもいいことだ。
もはやヴェルナーは、ヒュベルトゥスのものなのだから。
「戻ってきた時が楽しみだな」
その時ヴェルナーはヒュベルトゥスの前でどのような顔をするであろうか。
素知らぬ顔をして見せるだろうか。
だがもう、それだけでやり過ごせるような仲に戻す気は無い。
ヒュベルトゥスは楽し気に、くつくつと笑った。
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