一、悪夢の中
薄暗い王都の石畳の上を走っていた。
追ってくるものから逃げるために。
得体のしれない、影のような闇そのもののような、光を通さぬモノ。気体のような液体のような、視界いっぱいに広がったかと思えば水たまりのようにも縮むモノ。
それはヴェルナーをのったりと追い続ける。
右手には愛用の槍。追ってくるものを幾度薙ぎ払っても手ごたえは無く、わずかに散ったかと思えばすぐに元に戻る。
全力で走っているつもりなのに体は重く思うように進まず、見知ったはずの王都の道は妙に狭い。
ヴェルナーの心臓はどくどくと早鐘を打ち、追われる焦燥感に眩暈がした。
王都邸へ向かっているはずが見知らぬ場所に出てしまう。
――どうして家までの道がわからないんだ⁉
足を止めた瞬間、どぷり、と呑まれた。
薄暗い山間の集落に居た。
赤く色づき始めた山々の間にぽつりぽつりと合掌造りに近い様式の家屋があった。雪深くなる地域なのだろうか。
――この世界にこんな建築様式があるのか。
そう思った瞬間、ヴェルナーはぞっとした。
この世界、とはなんだろう。今自分がいるのはどこなのか。早く帰らねばいけない。帰ろうとしていたのになぜここにいるのか?
農作業帰りと思しき集落の人が、親切に帰り道を教えてくれた。教えてもらった道を歩いていたつもりが、違う道を歩いていた。
そうださっきの分岐で違う道に入ってしまったのだ。来た道を戻る。
もう何度も同じことをしている気がする。
また集落の人と行き会った。急がないと日が暮れてしまいますよ。終電ギリギリです。
ヴェルナーは走り出した。
また、人に行き会った。駅はあっちですよ、と親切に指差して教えてくれた人の瞳が、じわりと黒く煙った。
見つかった。
またあれに見つかったのだ。
汗が噴き出し心臓がどくどくと音を立てる。
足元にぶわり、と闇が広がった。
走る足に闇が吸い付き重くなる。
槍を足元に突き立てようとして、手に何も持っていないことに気が付いた。
空の右手を見つめた瞬間、どぷり、と沈んだ。
海際の高層ビル群の屋上に居た。
見下ろす視界は夕暮れでもないのに薄暗い。
色彩がないのだと青年は気づいた。
水平線に沸き立つ黒い積乱雲がじわじわと近づいてくる。
どうやってビルの屋上まで上がってきたのだろうか。覚えていない。
雲がどんどん陸地へ近づくにつれ、風が強くなり青年の髪を巻き上げる。
首筋が妙に寒い気がして右の掌でうなじをさすると、短く雑に切られた襟足に触れた。
辺りが一層暗くなり、空気も冷たくなってゆく。いつの間にか頭上は黒い雲に覆われてぽつりぽつりと雨が落ちてきた。
手の甲に落ちた雨粒に目をやると、薄く墨の混ざったような色合いをしていた。驚いて空を見上げると、ぽつり、左目に雨が落ちて視界が薄墨に染まった。その視界にさらに黒いものが現れる。
海際からビル群が次々と黒く染まっていき、やがてどぷり、と地に沈んだ。
世界が色と温度と光を失ってゆく。
あの黒いモノは虚無そのものだった。
呑まれるたびに、外側から何か削り取られていくようだった。
削り取られ薄くなり、自分が消えてゆく。
あんなにも必死に戦ってきたのに。
自分には暖かな陽だまりそのもののような大事な何かがあった気がする。
美しく強かな、確かな光のもとに居た気がする。
しかし青年にはもう、それが何であったか思い出すことはできなかった。
足元のビルが黒く染まり、どぷり、と沈んだ。
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